【まちづくり】場末からまちの顔へ変わった浜松駅-浜松と遠鉄:第1回

 今年はNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」で舞台となった浜松市。人口70万人を擁し、中心街にある浜松駅前に広がる景観は大都市の風格があります。
 しかし、浜松駅は開業時は「場末」と呼ばれた場所でした。そんな浜松駅周辺がどのようにいまのような姿になっていったのか、追ってみたいと思います。

 
浜松駅周辺の地図

浜松駅周辺の地図です。オレンジの線は開業時の東海道線の位置です。施設は本原稿に関係する施設を列挙しています  (OpenStreetMapを元に作成) © OpenStreetMap contributors

 

場末に生まれた浜松駅

 徳川家康の築城により栄えた浜松の市街地は、当初東海道沿いに発展していました。一方で東海道線の浜松駅は地形の都合から、市街地の東の端、田んぼの中に置かれました。これでも陳情により市街地寄りに駅の計画場所が変更となっています。当初の計画ではさらに南側の場所に作られる予定でした。
 東海道線の浜松駅が開業した10年後に遠州鉄道が開業します。当初の遠州鉄道のルートは現在のように直線的ではなく、蛇行しながら市街地を進むものでした。
 開業当初は東海道(現在の国道152号線)の北にある遠州浜松駅までの開業で、大正期に国鉄との貨物連絡運輸のため延伸します。一旦馬込川まで向かい、東海道線の浜松駅前までスイッチバックする格好でした。
 このころの市街地は東海道沿いに広がっており、現在の田町のあたりが当時の中心市街地でした。

 
浜松市田町

田町地区の東海道沿いにおける現在の姿 (撮影:鳴海行人・2016年)

 

浜松の顔となるために

 戦後になると、浜松は都市としての基盤を整え、都市改造に乗り出します。そこでポイントとなったのは浜松駅の移転でした。
 このころは高度経済成長期に差し掛かり、自動車交通を妨げる鉄道との平面交差や都市部へのトラック輸送の流入が問題となっていました。平面交差による自動車交通のマヒが市民生活に与える影響は深刻で、高架化は浜松市民の悲願ともなっていました。1967年には市民による署名運動が大規模に行われ、18万筆も集まっています。
 その少し前の1965年に、浜松駅の東に広がる貨物ヤードを西の郊外へと移設することになりました。1971年に新しい貨物ヤードは西浜松駅として開業します。そして旅客のみの扱いとなった浜松駅をいよいよ1972年から高架化する工事が始まりました。この工事では、駅舎を南に移設することで駅前広場を拡充し、バスターミナルを整備することで、まちの玄関口を作ろうとしました。
 大規模工事を経て、駅舎は1979年、駅前バスターミナルは1982年に完成します。

 
浜松バスターミナル

浜松駅前のバスターミナルは正16角形です。駅ビル「メイワン」のレストランからはここを見下ろせるビューポイントがあるそうです (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 1968年に浜松市建設部が雑誌「新都市」で発表した論文には、浜松駅前に商業機能を集中しようとする試案が掲載されています。このときには、遠州鉄道の高架化は具体化していませんでしたが、現在の浜松駅周辺の形に似た計画になっています。

遠州鉄道の高架化

 遠州鉄道の高架化は東海道線の高架化と同時期に話が進みました。当時11分~12分間隔と高頻度運行を行っていた鉄道が市街を縦断していたとなれば、高架化は必至だったといえます。1973年に静岡県から高架化計画への協力要請があり、1980年から工事を行うこととなります。
 1977年に浜松市とコンサルタントがまとめた計画に基づき、都市計画道路や河川の上空を利用し、国鉄浜松駅至近に「新浜松駅」を作る工事が始まりました。当時は遠州馬込駅の役割である貨物連絡もなくなっていましたから、この直線的ルートへの変更は必然的ともいえるでしょう。
 工事は5年ほどで終わり、1985年に新浜松駅が開業しました。こうして現在の浜松駅前の交通インフラが揃うこととなります。

 
新浜松駅入口

新浜松駅の入口は遠鉄百貨店に隣接していて、辺りは”都市らしい”空間となっています (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 

駅前へと集中する商業施設

 遠州鉄道高架化に関する計画がまとめられた1977年は現在の浜松駅前の姿がほぼ決まった年でもありました。
 同じ年に市街地の広域商業診断が行われ、エリア毎に商業の機能が提案されます。また、静岡県の指示で進められた駅前整備計画の中間報告書がまとめられたのもこのころでした。その中で駅前への高機能な商業施設集中と浜松の顔としての駅前整備が打ち出されていきます。
 このころになると旧東海道沿いの田町は歓楽街としての機能が中心となっており、それに特化させることも考えられていました。
 1980年代になると、遠鉄百貨店や国鉄駅ビルの「メイ・ワン」(1988年開業)、イトーヨーカドー(1987年開業)が浜松駅至近に作られていきます。特に遠鉄百貨店は西武・松菱と2つの百貨店がある中での開業となり、かなり挑戦的な事業でした。

 
遠鉄百貨店

左側の建物が遠鉄百貨店本館、右側の建物は遠鉄百貨店新館(旧・フォルテ)です。浜松駅前の盟主、遠州鉄道としての威信と風格が伝わってくるようです。 (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 一方でこの遠鉄百貨店出店は浜松商業界にとって難しい問題でした。遠鉄百貨店は売り場面積を広くしようとしており、既存商店街への影響が大きい遠鉄百貨店の増床を食い止めるべく、地元商業界を挙げての交渉が粘り強く行われました。さらに市民の側からは早く浜松駅前を立派な街として整備することが要求されていました。
 当時の新聞では「地元商工会の反対で市街地整備が進まないなら署名運動など行う」といった旨の報道まであります。また、遠鉄百貨店は一度交渉で決まった面積よりも広い売り場面積を申請し、問題となるまでに至りました。
 結局遠鉄百貨店の面積は当初の交渉で決まった面積となり、1988年に開業します。1990年には遠鉄百貨店の横にある、ホールとオフィスビルが入居していた複合施設「フォルテ」に本社が移転しました。こうして、だんだんと遠州鉄道が駅前の盟主になっていきました。
 1994年には浜松駅東側のヤード跡にアクトシティ浜松という高層ビルができます。このころ浜松駅前は一気に浜松の顔としてふさわしい現代の都市的景観になっていきました。

 
アクトタワー

写真右にそびえる高層建築がアクトタワーです。高さは212m、45階建てとなっており、ホテル・オフィス・イベントホールが入居しています (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 

立派になっていく浜松駅前の裏で撤退していく商業施設たち

 1980年代後半に浜松駅前の大型商業施設が出そろうと、既存商店街では1990年代に大きな変化を迎えます。大型店が一気に撤退しだしたのです。1991年にニチイ(のちのサティ)、1992年に長崎屋、1994年に丸井、1995年に遠鉄名店ビル、1997年に西武が相次いで撤退します。これらの大型店は1960年代後半から1970年代に作られたものでした。

 ついには遠鉄百貨店よりも大きな売り場面積を持っていた百貨店「松菱」も2001年に劇的な自己破産を迎え、既存百貨店は大幅に地盤沈下することとなります。

 
松菱百貨店跡地

浜松の地場百貨店だった「松菱」の跡地です。再開発計画は難航しており、市街地の中心部にも関わらず、空き地の状態が何年も続いています (撮影:鳴海行人・2017年)

 

 市内唯一の百貨店となった遠鉄百貨店ですが、松菱跡への大丸進出の計画や隣接する「フォルテ」の維持問題が絡み、「フォルテ」を買収し、解体します。その跡地に、新館を2011年にオープンしました。
 このころには大型商業施設はわずか4つとなりました。2001年に西武跡地に開業した再開発ビルのザザシティ、90年代まで若者向けの店としてにぎわったサゴープラザビル、そして遠鉄百貨店と駅ビルのメイワンです。このうちサゴープラザビルは2012年に閉店しています。
 こうして浜松駅前に大型商業機能をほぼ集約したわけですが、1977年に浜松市の描いていたまちの姿とは大きく異なっていました。

 
田町中央通り

遠州鉄道の西側に沿うようにして北へ伸びる通りです。沿道には遠鉄名店ビルや丸井がありましたが、いまは建物の更新も進まない閑散とした通りとなっています (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 

浜松駅前を「顔」とし、いまを迎えて

 現在、浜松駅に降り立ち、北口へ向かえば活気ある光景を目にすることができます。「メイワン」と「遠鉄百貨店」がそびえ、駅前バスターミナルには遠鉄バスが行きかいます。遠州鉄道は12分ヘッドで運行され、地方鉄道の優等生と言われています。
 浜松のまちは「顔」を浜松駅前にすることに成功しました。そして、地域の足、遠州鉄道グループが駅前のいたるところで見られ、「浜松の盟主」ともいえる雰囲気さえ醸し出しています。一方で既存の商店街には人がいなくなっており、シャッター街となったところも見受けられます。松菱の跡地は開発が進まず、松菱の閉店によって、浜松駅との人の流れが分断される形となったザザシティはなんとか運営している状況です。それ以外にも遠州鉄道がテコ入れを図っているところもありますが、ほんの一部エリアの再開発にとどまっています。

 
ザザシティ

西武百貨店跡を中心に再開発した「ザザシティ」です。テナントの求心力はあまり芳しくなく、苦戦している様子がうかがえます (撮影:かぜみな・2016年)

 

 浜松駅前を整備していた1970年前半から1990年ごろは浜松市内で郊外に大型店がいくつも生まれた時代でもありました。一方で市街地のまちづくりは周辺環境の変化に伴う軌道修正がないまま、1970年代後半から忠実に実行されてきました。
 浜松の中心街のいまは、まちづくりや都市計画の難しさを私たちに伝えてくれています。

「浜松と遠鉄」特集記事一覧

【まちづくり】場末からまちの顔へ変わった浜松駅-浜松と遠鉄:第1回 (当記事)
【交通】「赤電」の朝を中心にいまを見る-浜松と遠鉄:第2回
【交通】「浜名湖をひとっ飛び」!?遠鉄バスの細心・大胆なネットワーク-浜松と遠鉄:第3回
(第4回は近日公開予定)

本記事の参考資料

浜松市『浜松市史』浜松市.
計量計画研究所(1977)『鉄道高架化事業調査報告書 昭和52年3月 交通ターミナル計画調査』計量計画研究所.
大塚克美, 神谷昌志(1983)『はままつ百話 : 明治・大正・昭和』静岡新聞社.
遠州鉄道社史編纂委員会(1983)『遠州鉄道40年史』遠州鉄道.
遠州鉄道社長室社史編纂事務局(1993)『遠州鉄道50年史』遠州鉄道.
浜松市建設部(1968)「東海道線の高架化と駅周辺の再開発の指向について」,『新都市』22巻9号,pp.47-55
日本経済新聞各号

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鳴海 行人
matinote仕掛人・ライター・マネージャー(編集長) 90年生まれのまち探訪家。 地域を俯瞰的に見つつ、歴史を掘り下げて現在の姿への系譜を探りながら、まちを観察をしています。地誌・地方都市・総合交通体系・ロードサイド・観光・空間デザインなど様々な視点を駆使し、まちを読み解くことがひとつの楽しみです。