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経営環境に翻弄された仙台3番手の百貨店、「さくら野百貨店仙台店」

 2017年2月に閉店した「さくら野百貨店仙台店」。東北を代表する駅前という好立地にあったにも関わらず、突然閉店したことは、仙台のまちに大きな驚きを与えました。
 この店はかつて「丸光」という屋号で市民に愛された地場百貨店でした。同じ地場百貨店の「藤崎」が東北一の百貨店として営業を続けるのに対し、
「丸光」はどうして屋号を変え、結果的に突然の閉店という幕切れになってしまったのでしょうか。今回は「丸光」から「さくら野百貨店仙台店」への変遷を追いながら、明暗を分けた経営の違いを探ります。

さくら野百貨店仙台店と周辺の商業施設の立地 (作成:かぜみな) (OpenStreetMapを元に作成) ©OpenStreetMap contributors

第二の地場百貨店「丸光」

 1946年に仙台駅前で創業し、1953年に百貨店としての営業を開始した丸光は、仙台駅前で初となる本格的な商業施設として急成長し、仙台駅西口という当時はまだ場末とされていた場所にありながら、1960年代には「藤崎」「仙台三越」と肩を並べる売上高を誇る百貨店になりました。東北各県への支店展開も早く、最盛期は東北各県に6店舗を展開していました。
 そんな丸光は戦後東北で始めて広告ネオンを屋上に設置して話題になったほか、全館蛍光灯、エスカレーターの設置、海の見える展望台などいずれも東北初の施設を設け、藤崎とは違う、新興の百貨店ならではの店づくりが話題になりました。

 そうした仙台丸光の画期的な設備の中でもよく知られていたのが、1953年から一日3回(資料によっては5回)屋上から流されるようになったミュージックサイレンです。午前10時、正午、午後5時の三回「荒城の月」が流され、仙台駅を利用する市民に大きな印象を与えていました。ただ毎日酷使していたこともあり、年を経るごとに次第に音程がずれるようになり、そのズレも含めた「丸光のサイレン」として愛されていたようですが、バブル期の前後に故障して動かなくなり、そのあと撤去されたといいます。

丸光からダックシティ、そしてビブレへ

 しかし、1970年代以降、東北地方一帯で東京資本の総合スーパー・百貨店の進出が加速するようになりました。そこで丸光は経営体制の強化を図るべく、同様に大手資本からの攻勢にさらされていた東日本の地場百貨店4社と共に連合を組み、仕入れ料金の代行等の一部業務を統合する「(株)百貨店連合」の設立に乗り出します。1982年には法人としても5社が百貨店連合と合併し、1985年には「ダックシティ」へと商号を変えることとなり、丸光も「ダックシティ丸光仙台店」へと名称を変更します。
 仙台の店舗は連合各社の中でも成績が良く、旗艦店として他店を牽引する店舗で、増床や新館建設といった積極策を打ち出していきますが、「ダックシティ」と彼らの支援元であった「マイカル」に次第に翻弄されていくことになります。

当時の仙台ビブレのような高感度ファッション路線を狙う横浜ビブレ(撮影:かぜみな・2015年)

 1991年にはファッションビルへの転換を目指してマイカルの店舗ブランドである「仙台ビブレ」へ転換し、30代までの女性に照準を当てた店舗としました。仙台ビブレへ業態転換をしてすぐは業績が思うように伸びず苦戦を強いられることになりますが、1999年に行われた仙台の20代OLを対象にした「仙台で好きな大型店はどこですか?」といったアンケート調査では「141ビル(現:三越定禅寺通り館)」、「藤崎」、「仙台フォーラス」に続いて4位につけるなど、仙台駅西口の商業施設では健闘している商業施設となっていたようです。

 しかし、仙台ビブレがこうした健闘を続ける一方、法人としての「ダックビブレ(ダックシティから1998年に社名変更)」は他の店舗の業績に足を引っ張られて火の車の状態が続いていました。その上グループ入りしていたマイカル自体の経営悪化にとどめを刺される形で、2001年に民事再生法の適用を申請することになります。

「さくら野百貨店仙台店」として再出発

 その後、ダックビブレはマイカルグループから離脱し、独立系の企業としての道を歩んでゆくこととなります。百貨店連合設立時の一員であった青森の「カネ長武田百貨店」のオーナー一族が経営する不動産事業者の「武田」をはじめとする東北の有力企業の連合ファンドに支援を受けながら「さくら野百貨店」という新たな称号を採用して、「創業のつもりで」(当時の社長)新しく店舗の経営を行っていくことになります。

 その経営再建の中で2004年には高島屋に営業支援を受けることになり、その中で2005年には「仙台店の資産管理会社(さくら野DEPT仙台)」「仙台店の運営会社(のちのエマルシェ)」「その他店舗の運営会社(のちのさくら野百貨店)」という形で会社を分割し、再建計画を完了させることになります。こうした異色の会社分割は、仙台店とその他の店舗では営業戦略が異なるためでしたが、当時の仙台店運営会社の社長には高島屋出身者が就き、支援を行っていた髙島屋が「仙台店だけを取りこみたい」と考えていたのではといった憶測も流れました。それほど仙台店とそれ以外の店舗での店舗の特色や売り上げが違ったのでしょうが、こうした変則的な会社分割が、この後さくら野百貨店仙台店に大きな影響を及ぼすこととなります。

カネ長武田百貨店の系譜を継ぐ「さくら野百貨店青森本店」。現在は仙台店とは資本関係がなく、現在でも通常通り営業を続ける(撮影:かぜみな・2014年)

 丸光の合併以来、23年ぶりに独立した企業による店舗運営となった「さくら野百貨店仙台店」でしたが、ここまでの過程で百貨店とファッションビルの中間を行くような店舗戦略を行ってきたこともあり、「百貨店」という店舗名とそのギャップに苦しむことになります。加えて2008年には北側に仙台パルコが開業し、駅ビル「エスパル」も拡張を重ねて若年層のファッションブランドを強化してゆく中、「さくら野」が独自性を発揮できる分野はどんどんと狭まっていきました。

 2009年には直営売り場を縮小してテナント主体の売場編成に転換することを決め、2010年にはブックオフの大型店を誘致します。同年には仙台店以外の運営会社との再統合に向けた動きも見られましたが、結局のところ破談に終わり、仙台店は独自法人での経営再建を迫られることになります。2012年には東北初のH&Mを誘致するなどの積極策も打ち出していましたが、2016年の「エスパル東館」「仙台パルコ2」開業後も存在感を発揮できず、ついに2017年2月末に、仙台店運営会社の「エマルシェ」は自己破産を申請し、さくら野百貨店仙台店は半世紀の歴史を閉じることとなりました。

 この一連の倒産劇は、さくら野百貨店が商圏への対応が十分でなかったことが原因としてよく取り上げられますが、実はさくら野百貨店仙台店(エマルシェ)が破綻する遠因は、それ以外にもありました。

営業中のさくら野百貨店仙台店。現在もこの建物のまま空きビルとして残っている(撮影:かぜみな・2015年)

「さくら野百貨店仙台店」を苦しめた「土地」と「不動産」

 それは、不動産を巡るトラブルです。大きな転換点となったのはさくら野百貨店仙台店を含む地区一体の再開発構想でした。2006年に再開発構想を発表した東急不動産は、さくら野百貨店仙台店を含めた周辺不動産の買収を進め、仙台店の資産管理会社「さくら野DEPT仙台(以下:DEPT社)」も東急不動産の資本が入ることとなりました。土地建物の権利関係が複雑な中でも、DEPT社は仙台店の土地と建物の8割を所有しており、東急不動産は実質的な仙台店店舗の所有者となります。
 しかしリーマンショックによって景気が悪化、2010年には再開発をいったん中断し、さくら野百貨店仙台店は2020年度までは建て替えない意向が運営会社「エマルシェ」に伝えられます。しかしその後も再開発着工のタイミングを伺ってはいたようで、2011年の東日本大震災時には老朽化と増築による複雑な構造による店舗の大規模なダメージを修復すべく、建物の修復工事をいち早く大手ゼネコンに発注し、藤崎や仙台三越よりも早い4月に営業再開にこぎつけ、その工事費も東急側が負担するなど、エマルシェは東急不動産に過剰ともとれるくらいの支援を行います。

 しかしエマルシェ側は前述の通り、経営が悪化して賃料の未払いが目立つようになります。DEPT社(東急不動産)以外のオーナーから、未払いを続けるエマルシェを支援するDEPT社の立場を問われるようになるなど、DEPT社(東急不動産)、DEPT社以外の土地・建物所有者、エマルシェの3者の関係が悪化していきます。そうした中、東急不動産は2014年に正式に再開発を断念し、関連する資産をすべて売却し、完全に手を引きます。代わりにDEPT社を引き取ったのは、ペーパーカンパニーの登録地として知られる英国領ヴァージン諸島に登記を置く匿名投資ファンドでした。
 投資ファンドに変わった2014年末にはエマルシェがDEPT社に未払いとなっていた賃料は7億円にまで膨れ上がっていました。投資ファンドはすぐさま賃貸借契約の解約をエマルシェに通知し、2015年3月には未払い賃料10億円の支払いと建物の明け渡しを求めてエマルシェを相手取る訴訟を起こすことになります。当時エマルシェ側には東急不動産から投資ファンドへとDEPT社のオーナーが変わったことすら通知されておらず、突然の解約通知に社内は大混乱に陥ったと言います。
 エマルシェとDEPT社(投資ファンド)は最終的に和解し、賃料の支払いと明け渡しが猶予されることになりますが、交換条件としてDEPT社(投資ファンド)側が推薦する別の投資ファンドへとエマルシェの経営権を委譲することになり、その後、エマルシェの百貨店運営は迷走を極めることになります。
 2016年の8月には他のオーナーから訴訟を起こされ、10月にはほぼ実態がなかった社長に変わり仙台店店長が社長に昇格、社長は経営権を投資ファンドに握られつつも事態の幕引きを図るべく「賃料訴訟の取り下げが無ければ、2017年5月に建物の賃貸借契約を解除する」とオーナー側に通知、2017年5月の閉店のめどを付けます。

 しかし、最後のとどめとなった事件が起きます。エマルシェ側に「さくら野」の名称を無償で貸与してきた「さくら野百貨店(仙台店以外の運営管理会社)」が、エマルシェ側経営陣に対する不信感から4月末以降の商標使用を認めないとしたのです。さらに賃料訴訟も結局取り下げられず、判決日が2017年3月27日に決まり、万事休すとなったエマルシェは、判決日を待たずして2017年2月末に自己破産を申請したのです。

 「エマルシェ」破産後も一部のテナントは営業を続けていましたが、2017年度上旬までに順次移転・撤退して、現在は空きビルとなっています。空きビルとなった現在でも、地権者・建物保有者の調整が続き、再開発の見通しは立ってないようです。空きビルの角は仙台での路線価がトップの地点でもありますが、建物の老朽化もあり、空きビルの状態が解消されるまでには、まだしばらく時間がかかりそうです。

「のれん」と「信用」が明暗を分けた「藤崎」と「丸光」

 ここまで丸光からさくら野まで駅前で事業を行ってきた百貨店の軌跡をたどってみました。ここで、同じ市街地にある東北一の百貨店「藤崎」にあり、閉店した「さくら野」になかったものは何か考えてみましょう。(参考記事:仙台でのれんを守りつづける地場百貨店「藤崎」、その愛される理由は

 それは「のれん」の知名度です。つまり「名前を聞けばどこにあるどういう中身の店なのかちゃんとわかる」という利用客の安心感が特に百貨店事業においては大事だということだろうということです。特に市民が保守的と評されることもある仙台では、その傾向が顕著だったのかもしれません。

 「藤崎」は江戸期の創業以来呉服屋から百貨店へと転換を遂げつつも、高度経済成長期以降は「地元のデパート」として、誰もが知る抜群の立地と、看板を変えずに存在し続けることによって、「大町=藤崎」という場所のイメージと店舗の存在を結びつけることに成功してきました。

 一方の「丸光」は1970年代の東京資本の進出に対して他の店舗名を掲げる東北各地の百貨店との連合の道を選びます。その後大手資本も入り、店舗名を「ダックシティ丸光」「仙台ビブレ」「さくら野百貨店仙台店」とこの30年で大きく変え、店舗戦略も大きく揺れ動いてきました。場所こそ変わらず、最終的には再び地場資本には戻りましたが、仙台駅と一番町を結ぶ動線からは、パルコやAERの開業によって置き去りになり、時代によって変わる名称によって「場所と店舗」がうまく結びつかず、印象が薄まってしまう結果を招いてしまったように思います。さらに土地や建物の権利関係が複雑で、その上自社物件でなかったことがさくら野百貨店仙台店にとどめを刺すこととなります。
 そして「丸光(さくら野百貨店仙台店)」が「百貨店」というのれんに再びこだわりだしたころには、仙台駅西口は若者の街としてその地位を確立させており、そのミスマッチがのちの悲劇を引き起こす遠因となったように感じます。

 「のれん」は利用客に限らず、経済界に対しても同様に言えるようです。さくら野百貨店仙台店はマイカルの破たん以降、企業としての信用を得られず、メインバンクが無い中大規模な借り入れができず、売り上げがそのまま運転資金となる厳しい状態が長く続き、最末期の混乱の遠因となる賃料の未払いが発生したといいます。歴史にとらわれない商業の変革が求められる時代である一方で、最終的には歴史に立脚した「ブランド」と「信用」が法人としての店舗の命運を分けてしまうのには、複雑な感情を持たざるを得ません。「藤崎」が残り、「丸光」が消えた仙台。一概には言えませんが、この「事件」は、日本の持つ独特な「保守性」に対する疑問を私たちに投げかけているのかもしれません。

参考文献

国立国会図書館レファレンス協同データベース:http://crd.ndl.go.jp/reference/(2018年7月30日最終閲覧)
東京商工リサーチHP:http://www.tsr-net.co.jp/(2018年7月30日最終閲覧)
仙台経済界(1999)『仙台経済界』16(10)(110).
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河北新報ONLINENEWS「<ニュース深掘り>さくら野仙台店跡地の今後 再開発、市が積極関与を」:https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201712/20171225_12035.html(2018年7月30日最終閲覧)
河北新報ONLINENEWS「<検証 さくら野仙台破綻>(下)終焉/不透明な人事 不信増幅 一等地の老舗 廃墟と化す」:https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201712/20171224_13014.html(2018年7月30日最終閲覧)
河北新報ONLINENEWS「<検証 さくら野仙台破綻>(中)変容/失われた経営の独立性 匿名ファンドオーナーに」:https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201712/20171222_13011.html(2018年7月30日最終閲覧)
河北新報ONLINENEWS「<検証 さくら野仙台破綻>(上)暗雲/最大支援者撤退で窮地 震災倒産免れるも売上高減」:https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201712/20171221_13027.html(2018年7月30日最終閲覧)
日本経済新聞地方経済面東北「さくら野百貨店仙台店破綻2カ月――テナント撤退が加速、従業員転職も本格化、再開発の動きは鈍く(仙台変わる商業地図)」2017/04/29付
日刊建設工業新聞「仙台市/さくら野仙台店閉店、跡地の有効利用を支援へ/奥山恵美子市長が方針表明」:https://www.decn.co.jp/?p=89381(2018年7月30日最終閲覧)
日本経済新聞地方経済面東北「さくら野百仙台店、運営会社が破たん、駅前大型店、競争激しく。」2017/02/28付
日本経済新聞地方経済面東北「東北百貨店、改装ラッシュ、仙台では地下鉄新線にらむ、十字屋山形店、食品売り場、3月に。」2014/01/31付
日本経済新聞地方経済面東北「さくら野百仙台店、営業を延長、外商復活、H&M開業後に、歳暮商戦前倒し。」2012/10/17付
日経MJ(流通新聞)「H&M、東北初出店、JR仙台駅前に11月開業。」2012/07/08付
日本経済新聞地方経済面東北「さくら野百仙台店、ネット販売参入、食品中心に――高齢・被災者需要に対応。」2012/02/07付
日本経済新聞地方経済面東北「さくら野百仙台店競争力強化、エマルシェがMBO、テナント誘致、意思決定、迅速に。」2011/11/25付
日本経済新聞朝刊「百貨店――競合超え「物資を回せ」、「買い控え」逆風に(大震災企業はどう動いた)」2011/04/08付
日本経済新聞地方経済面東北B「仙台駅前、商業施設改装競う、パルコ・さくら野百・ダイエー、購入年齢層拡大目指す。」2011/02/19付
日本経済新聞地方経済面東北A「エマルシェ、2億1500万円減資、すべて準備金に。」2011/02/08付
日本経済新聞地方経済面東北B「さくら野百貨店仙台店、閉店30分早める、来月から、光熱費抑制。」2011/01/22付
日本経済新聞地方経済面東北B「仙台駅西口の一体開発、東急不、当面見送り、小規模飲食ビルを暫定建設。」2010/10/22付」
日本経済新聞地方経済面東北B「さくら野百貨店、8月に社名変更、「エマルシェ」に。」2010/06/25付
日本経済新聞地方経済面東北B「百貨店のさくら野2社、経営再統合見送り、資本関係見直し、営業面の協力は維持。」2010/04/07付
日本経済新聞地方経済面東北B「さくら野百貨店仙台、外商事業から撤退、経営資源、店舗改装に集中。」2009/10/16付
日本経済新聞地方経済面東北B「さくら野百仙台店、店舗の3割テナント誘致、自社売場集約、収益構造見直しへ。」2009/08/18付
日本経済新聞地方経済面東北B「仙台の大型商業施設、ブランド店誘致白熱――衣料や雑貨、移転活発8(東奔北走)」2009/04/25付
日本経済新聞地方経済面東北B「苦闘する地方百貨店(上)大手との連携に活路――関係強化には試練も。」2005/06/29付
日本経済新聞地方経済面東北B「さくら野百、民事再生手続き完了――旗艦店好調7年前倒し、債務超過455億円解消。」2005/06/28付
日本経済新聞地方経済面東北B「さくら野、再建第2幕へ、高島屋が営業支援――幹部6人受け入れ。」2004/01/07付
日本経済新聞地方経済面東北B「さくら野百貨店、目玉はセレクト系、仙台店を改装。」2003/02/22付
日経MJ(流通新聞)「ダックビブレ、マイカルから独立、「さくら野百貨店」で再出発。」2002/08/01付
日本経済新聞地方経済面東北B「ダックビブレからさくら野百貨店へ、「創業のつもりで努力」――社長会見。」2002/07/31付
日本経済新聞地方経済面東北A「ダックビブレ、武田が支援、地元協力で自主再建へ――取引条件も緩和要請。」2002/02/26付
日経流通新聞「ダックシティ赤字改善へ攻めの経営――買い取り拡大を加速(不連続線)」1993/08/24付
日経流通新聞「ダックシティ赤字改善へ攻めの経営――財務悪化どう克服(不連続線)」1993/08/24付
日本経済新聞地方経済面東北A「仙台”百貨店戦争”、消費低迷、広がる不透明感(みちのくNOW)」1992/11/29付
日経流通新聞「仙台駅前商戦が始動、西友とビブレ、近く開業。」1991/09/19付
日本経済新聞朝刊「百貨店連合、武田山田百・丸光・小美屋と合併――9月から11店に。」1982/04/16付

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渦森 うずめ

都市という現実の中に漏れ出す夢や理想を商業空間に見出して遊んでいます。逆にコンテンツという夢や理想から現実を救い上げるのもすき。つまりは理想と現実を渡り歩く放浪者(?)。消えそうなファーストフードチェーン「サンテオレ」を勝手に応援中。