【まちづくり】「請願駅」のはずなのに、市民が大反対!?―「北上尾」をめぐる謎:第1回

 上野駅から約37km、JR高崎線で40分の場所にある埼玉県上尾市の「北上尾駅」。駅の開業は1988年12月のことで、JR化後初めての「請願駅」(地元住民の要望で作られる駅)でした。駅の周囲は住宅に囲まれ、乗車人員は1日あたり1万5000人という、首都圏の主要JR路線の駅にしては小規模でのんびりとした雰囲気の駅です。しかし、開業を巡って上尾市や駅開設に関して携わっていた第三セクターなどに様々な疑惑が持ち上がったことや、地元の反対運動があり、当時の新聞記事を大いににぎわせた「難産」の歴史があります。
 今回は、北上尾駅が開業するまでの壮絶な経過を追っていくとともに、北上尾駅が開設したのち、現在の北上尾の様子についてもご紹介したいと思います。

 

北上尾駅の周辺地域(OpenStreetMapで作成)© OpenStreetMap contributors

 

計画のはじまり

 北上尾駅の設置計画は、高度経済成長期にまでさかのぼります。周辺地域の宅地化や人口増加によって、住民より新駅を開設してほしいという要望が高まり、新駅開設を前提とした区画整理事業なども1960年代から1970年代にかけて行われました。しかし上尾桶川間はもともと短距離であったことや国鉄の財政事情などによりなかなか具体化しなかったようです。

 それでも、1986年になってようやく新駅開業の動きが具体的になります。4月に上尾市が都市経済部に駅周辺対策室を設置、その翌月の5月には当時の上尾市長がトップとなって地元主導の駅建設促進期成同盟会(以下:同盟会)が発足します。上尾駅の混雑がいよいよ激しくなっていたことや、上越新幹線の開業によりダイヤに余裕が出てきたこと、国鉄民営化が迫っていたことなどから、いままで消極的であった国鉄の姿勢がこの時期に変化したことが理由としてあるようです。
 その後7月に同盟会によって提出された新駅請願書が上尾市議会にて採択され、10月には同盟会が正式に国鉄高崎鉄道管理局へ駅開設の要望書を提出します。その要望書には「新駅設置に関する費用は全額同盟会が負担する」、「新駅設置に要する用地は国鉄の指示による」、「新駅の業務遂行に要する費用(筆者註:開業後の赤字負担のことと思われる)は、同盟会の負担と」することなどが条件として挙げられています。
 国鉄からは10月末に返答があり、国鉄本社へ上申したことと、新駅設置予定地の周辺開発について早期推進を求めることが記載されており、それを受けた上尾市は県知事と県教育長宛で書面を送ることとなります。実は駅予定地に隣接する場所に県立上尾高校が立地しており、国鉄が求めた周辺開発のためには、県立上尾高校の移転が不可避な状況となっていたのです。

 しかし上尾高校側への事前の調整は一切なく、移転の話はまさに寝耳に水であったようです。それでも7月には高校の移転を画策している動きをつかんでおり、「移転や教育環境を悪化する計画等には応じられない」、つまり移転に反対する旨を上尾市へ伝えており、その際に上尾市は検討を約束したといいます。またPTA・後援会・同窓会の3者による移転・教育環境の悪化反対の署名活動がこのころスタートします。しかし計画は変更されないまま進み、12月の上記書面によって高校移転の要請が県に向けて行われることとなります。
 一方で国鉄側に提示した条件である地元での費用負担を巡っては、同盟会は第三セクターの「上尾都市開発(株)」にその負担を要請し、「全額当社で負担する」旨の回答を得ています。ただこの第三セクターも同盟会と同様、当時の上尾市長が代表取締役を務めており、実態は意味のないやりとりであったともとれます。

 

北上尾駅西口に隣接する上尾高校(撮影:鳴海行人・2017年)

 

 年明けの1987年1月、署名活動が高まりを見せるなか、反対メンバーが右翼団体より脅迫を受けるようになります。署名活動そのものに対しても高校同窓会側からの圧力が見られるようになります。このただならぬ事態に「単なる駅開設の事業」に終わらない何かを予感した高校関係者や地元住民を中心として「教育と開発と住民自治を考える市民の会」(以下:市民の会)が発足し、より強く市民活動を進めていくことになります。
 反対の署名活動は、最終的に2万3千筆を超えるものとなりましたが、そういった動きをよそに駅開設の手続きは粛々と進み、2月に国鉄と同盟会の間で正式な契約が交わされることとなります。市ではなく同盟会との契約ですが、同盟会の会長が市長であるという事実を担保にした契約書であったようです。1988年のダイヤ改正(3月)の開業を目指して建設計画が立てられ、1987年の6月には駅舎の建設工事が始まることとなっていました。

 この契約を受けて、実施に費用を負担することになっていた上尾都市開発は、2月に同盟会長と市長宛に、「北上尾駅(仮称)設置にかかる費用負担に当たりご要望の件」という文書を出します。「新駅及び駅隣接区域で営業可能な部分」と「駅周辺地域の開発」で優先的に事業機会が得られることを要請する取締役会の議事録が提出されており、つまり、費用負担の見返りとして北上尾駅にかかわる事業が上尾都市開発側に優先的に回ってくることを要望しているということになります。逆を言えば上尾都市開発は北上尾駅にかかわる事業に参画することで、負担している費用をねん出するつもりであったようです。
 一方で「全額負担」と言っていた費用について「地元受益者からの募金等を積極的に推進され、当社の負担所用額が極力圧縮されるようご努力いただきたく存じます」とも併記されており、この一見矛盾するような内容の裏には、上尾高校の移転を前提としつつも、激しい反対運動によって計画通りの事業が難しくなるという判断があったのかもしれません。この判断が、のちに駅開設の前提となる地元の費用負担を巡る攻防を巻き起こすことになります。

隠された壮大な計画

 上尾市が埼玉県に出していた文書は、県知事と県教育長宛のものだけではありませんでした。企画財政部長、政策審議会室長、住宅都市部長宛などにも文書が出されていました。実は北上尾駅の計画は市や県の大規模計画とリンクした事業であったのです、しかし当時の地元住民にはそういった説明は一切ありませんでした。さらに1987年2月の市民集会では「北上尾駅は小さな通勤駅です」という当時の都市経済部長の発言まであり、上尾高校での移転反対運動を受けてなのか、大規模計画とのつながりは一切隠され続けていました。
 実は上尾市は1986年10月に、「北上尾(新駅)周辺整備計画」という計画を秘密裏に策定していました。計画の位置づけとして「上尾高校敷地を含めた駅周辺整備計画並びに駅舎施設利用計画等について、上位計画との整合、(中略)、当地区の新しい街づくり及び商業環境計画についての方向性を構想、提案」するものとしています。つまり「北上尾駅」は周辺の大きな開発構想とリンクした巨大な計画で、「上尾高校敷地」がその核となるものであったのです。具体的には駅の東側にある伊奈町の伊奈ニュータウンと、駅の西側に計画されていた工業用地などの新産業ゾーンへの玄関口として想定され、利用者数も当時の上尾駅よりも多い9万人を想定するほどの規模でした。

 

北上尾駅が最寄り駅になったかもしれない伊奈ニュータウン(伊奈町)。現在は埼玉新都市交通が大宮から伸びている(撮影:かぜみな・2017年)

 
 しかし上尾高校の移転反対運動は根強く、その実現は難しいものがありました。そのため市長は1987年3月に行われた上尾市議会で、「西口広場」の位置をずらすことで事業区域より上尾高校を外すことを決議します。しかし市民の会が提出した「上尾高校の移転要請文書を撤回するよう」求めた陳情は不採択にされたり、西口広場の予定地を立ち退かせる際に「二年後に上尾高は移転させる。代替地も確保してある」という上尾市職員の発言があったりして、移転そのものを撤回するつもりはなかったようです。
 8月には市民の会との交渉の場で、市長が「上尾高校の移転を進めようとした計画は変更された」という発言があり、実際に同年11月に上尾都市開発(株)によって策定された「KAO2000プラン」には、先述の「周辺整備計画」と位置づけはほぼ変わらないながらも、今度は上尾高校の移転がない形で計画が策定されるに至りました。しかし市長は撤回発言ののちも県に出した要請文書を取り下げることはなく、計画も高校移転が無くなっている分事業区域が縮小しているにもかかわらず2005年想定の駅勢圏予定人口が以前の「周辺整備計画」と変わらないなど、やはり将来的には結局高校を移転させる算段であったように思われます。実際「20年、30年先は分からないことだ」という市長の発言も残されており、表面上では移転を撤回しつつも、裏では高校移転は依然行う予定であったようです。

キーとなる「移転」が不透明になった事業の行く末は…

 結局のところ、一連の事業は都市計画上も、そしておそらく財政上も上尾高校の移転が前提条件として組まれていたのでしょう。しかし当の上尾高校は急な決定に対して当然移転に反対し、計画はその時点ですでに破綻をきたしていました。しかし北上尾駅の開設は先述したような壮大な計画とリンクする計画であり、そう容易に撤回したり、縮小したりできるものではありませんでした。結局上尾高校は移転撤回という形をとりながらも、実質「棚上げ」されたまま、北上尾駅の建設工事がスタートしました。
  さらに同盟会と上尾都市開発が、市長がトップを務める組織であることや、上尾都市開発が安易に引き受けてしまった費用負担は財政上の裏付けがなされていないことや、右翼団体がなぜか出現するなど、北上尾駅の建設の裏にはただならぬものがあると、市民の会はその後も様々な調査を続けていくことになります。そして、様々な事実が明らかになっていくのです。

 

北上尾駅の開設に向けて、この後さらなる難題が突きつけられることになります(撮影:かぜみな・2017年)

 

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【まちづくり】難題続きの駅建設とその街のいま-「北上尾」をめぐる謎:第2回(続き)

参考文献

上尾市HP:https://www.city.ageo.lg.jp/index.html(2017年6月16日最終閲覧)
JR東日本HP:http://www.jreast.co.jp/(2017年6月16日最終閲覧)
田島俊雄(2005)『ドキュメントJR第1号駅「北上尾」-開発・利権との闘い』時潮社
上尾市教育委員会(2001)『上尾市史 第7巻 通史編(下)』上尾市
上尾市教育委員会(1997)『上尾市史 第8巻 別編1 地誌』上尾市
田島俊雄(1988)『「北上尾駅」計画と市民運動-埼玉県上尾市で、いま、起こっていること』「技術と人間」17(10)(182),30-40.
上尾都市開発(株)(1987)『(仮)北上尾駅周辺地区整備構想KAO2000プラン』
朝日新聞埼玉『見切り発車 背景に「大規模開発」(検証北上尾駅:上)』1988/12/17付
朝日新聞埼玉『打ち続く疑問 寝耳に水の高校移転(検証北上尾駅:中)』1988/12/18付
日本経済新聞地方経済面首都圏B『国鉄、高崎線・上尾-桶川間に新駅――上尾都市開発が建設』1987/02/03付

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かぜみな

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ダイロクマチノテ代表・ライター・ポエマー 本屋と商業施設に想いをはせて、夢の跡を(強行日程で)訪ね歩く詩の人。 商業施設を訪ね歩いたり、商店街を歩いたり、バスに揺られて山奥のニュータウンにいったり、最近は離島に行くフェリーに乗るのも好きです。