【まちづくり】岡山の山中にあった壮大な新都市計画を追う―吉備高原都市:前編

 岡山駅から車で40分ほど。山の中をカーブやトンネルで抜けた先に突如として都市的な光景が広がります。

 片側2車線の道路に、立派な建物、そして造成された住宅地は「ニュータウン」と呼ぶのにふさわしいものです。しかし、このエリアは本来の計画面積の1/4に過ぎません。実はまだ未成の計画都市なのです。

 
吉備高原都市

吉備高原都市の中心、「きびプラザ」前を通る「吉備環状線」 (撮影:鳴海行人・2017年)

 

 今回は岡山の山中に新しいまちをつくろうとした計画を追いかけます。

 
吉備高原都市の位置関係図

吉備高原都市の位置関係図 (OpenStreetMapを元に作成) © OpenStreetMap contributors

 

 

岡山の山中にあたらしいまちをつくる

 岡山県の山中にあるニュータウン「吉備高原都市」。2000人ほどの住民がおり、いくつかの工場もある職住近接のニュータウンです。

 

「きびプラザ」にある吉備高原都市の案内図です (撮影:鳴海行人・2017年)

 

 このニュータウンの計画は1970年代にさかのぼります。当時、国土の均衡ある発展というスローガンの下、個性的な地方都市をつくる取り組みが各地で行われていました。岡山県では水島臨海工業団地を開発し、南部地域では工業が発達していきました。しかし、中・北部地域の振興は進まず、中部地域は「真空地域」とも呼ばれていました。

 そんな情勢の中、1973年に当時の岡山県知事・長野氏が中心となって構想されたのが「吉備高原都市」です。この計画が当時注目を浴びたのは、「福祉」を中心とし、新しい都市像を作ろうとしたところでした。そして「福祉県おかやま」のシンボル的事業としようとしていました。
 1975年に策定された基本構想を見ると、人間尊重・福祉優先として「新しいコミュニティづくり」、「人づくり」、「人間性の回復」を理念とし、人間都市の創出を目指すとしています。具体的には、新しい保健・福祉・文化センターの形成、自然教育や保養、趣味園芸などの諸施設を整備し、ほかの都市ではカバーできない機能を補完することとしていました。
 特に心身障碍者への福祉に力が入っており、福祉農園や福祉工場、保健福祉センターといった具体的な言葉が入っています。また、自然との共生を目指し、自然教育園や原生保護園、レクリエーション機能も盛り込まれました。

 構想の中では完成は1989年を目指し15カ年事業としていました。より具体的な建設計画は1977年に策定され、1981年にいよいよ都市建設が始まります。

華々しく始まった吉備高原都市計画

 崇高な理念と計画の元始まった吉備高原都市事業は基本的なインフラ整備から始まります。計画人口3万人を支える水源として鳴滝ダムを作り、岡山市街と直接つながる道路を建設し始めました。
 そして、計画人口にして3万人、新宿区がすっぽりと入る1900haもの土地を開発する計画は2期に分けられます。まずは前期事業として皇居3つ分もの土地にあたる432haが計画人口7000人、完成を1988年めどとして開発が始まりました。

 
吉備高原都市構想地図

吉備高原都市建設基本構想時の吉備高原都市全エリアにおける位置関係です。赤い点線が吉備高原都市計画の範囲となっており、灰色の線が吉備環状線(道路)です (OpenStreetMapを元に作成) © OpenStreetMap contributors

 

  まず、福祉工場として1980年に吉備松下株式会社(現在のパナソニック吉備株式会社)が設立され、1981年から工場の操業を開始しました。その後も1983年に吉備NC能力開発センターが操業を開始し、1984年には国により吉備高原地域テクノポリスに指定されました。
 1987年にはリハビリテーションセンターがオープン、ショッピングセンターや銀行が暫定オープンと地域のインフラが整ってきました。工場も福祉工場だけでなく、地元の有力バイオメーカー林原の研究所兼製薬工場ができます。
 そして同年、いよいよ住宅地の分譲が始まります。分譲に先だって、岡山県にゆかりのある財界・文化・芸能人に5000通のダイレクトメールを送り、イメージアップに取り組みつつ、北部住区を対象として第1次分譲が始まりました。分譲が始まってみれば購入の申し込みが殺到し、平均でも7倍、最高で60倍もの競争倍率になり、かつ15%が県外からの申込者であるなど、好調に終わりました。

 
吉備高原都市北部住区

吉備高原都市で最初に分譲が始まった北部住区の現在の様子 (撮影:わくせん・2017年)

 

 翌年にはテクノポリス指定の際に課題となった交通インフラの改善に取り組みます。岡山県が主体となって新交通システムの検討会が行われ、岡山市街から岡山空港を経由して吉備高原都市までガイドウェイバスを整備する方針が決まりました。総工費は850億円、5期に分けて工事を行い、最終的にはガイドウェイバスからリニアモーターカー(おそらく磁気浮上式)に切り替えるというものでした。

 
ガイドウェイバスの駅

ガイドウェイバスの「駅」です。写真は名古屋のガイドウェイバス「ゆとりーとライン」のものです  (撮影:鳴海行人・2012年)

 

 この年に行われた第2次分譲では平均9.2倍の競争倍率となり、県外からの応募が28%にもなりました。こうした順調ともいえる滑り出しに岡山県知事の長野氏は「中・四国、西日本地域の新しい都市像を提示する」と勢いのある発言をしていました。

 分譲地は一般的な造成型と、付近の林を残し居住者が自由に造成できる自然型に分けられ、前者は300㎡~400㎡、後者は600㎡と広い土地を分譲しました。これも人気の理由だったようです。

 1991年にはいよいよ後期事業が計画されます。後期はさらに2期に分け、1993年から事業が始まり、2003年に後期第1期事業の終了の予定となっていました。
 1992年には業務商業プラザの「きびプラザ」が完成し、アクセス道路の吉備新線も岡山空港まで開通しました(全線開通は1996年)。そして、交通インフラだけではなく情報インフラの整備計画も持ち上がり、「岡山情報ハイウェイ」として1998年には622メガビット(77メガバイト)の光ファイバー回線が岡山市街との間に結ばれる計画が提案されました。

 
きびプラザ

きびプラザの正面入口です。館内にはホテル、行政機関、銀行、24時間営業のコンビニなどがあります (撮影:鳴海行人・2017年)

 

 しかし、この大規模な計画の山は吉備高原都市計画に影を落とすことになります。

 次回は、財政縮減を迎えた岡山県が吉備高原都市計画に与えた影響と今の姿を追い、大規模な新都市計画について考えてみたいと思います。

参考文献

岡山県(1993)『吉備高原都市建設事業の現況 [平成5年度]』岡山県.
小池公大(1994)『吉備高原都市』日本文教出版.
片山菊次郎(1975)「吉備高原都市建設基本構想」,『新都市都市計画全国大会特集』29-10,35-51頁
日本立地センター(1981)「吉備高原都市開発整備事業に係る事業実施基本計画」,『産業立地』20-3,54-56頁
平松幸助(1982)「吉備高原都市の展開 -岡山県の建設計画-」,『不動産研究』24-2,30-38頁
中村良平(2000)「居住者アンケートに基づく吉備高原都市の評価」,『岡山大学経済学会雑誌』32-3,1-16頁
日本経済新聞(1984)「テクノポリス14地域の課題。」,『日本経済新聞 夕刊』1984年2月10日,3頁
日本経済新聞(1987)「岡山県住宅公社、5月に吉備高原都市で初の住宅分譲―自然と調和まず101区画」,『日本経済新聞』1987年3月6日,11頁
日本経済新聞(1987)「最高61倍の応募、吉備高原都市の北部住区一次分譲」,『日本経済新聞』1987年5月31日,11頁
日本経済新聞(1988)「4路線設定、ガイドウエーバス最適、岡山県新交通研究会が報告。」,『日本経済新聞』1988年3月5日,11頁
日本経済新聞(1988)「本四連絡橋展望(2)広域物流拠点―岡山県知事長野士郎氏(せとうち経済圏新時代)」,『日本経済新聞』1988年4月20日,33頁
日本経済新聞(1988)「岡山県新交通システム懇、採算性など討議」,『日本経済新聞』1988年8月28日,11頁
日本経済新聞(1988)「吉備高原都市の75区画、10月半ばに第二次分譲」,『日本経済新聞』1988年9月28日,33頁
日本経済新聞(1991)「吉備高原都市後期計画、2期に分け880ヘクタール整備―5年度にも第1期着工」,『日本経済新聞』1991年11月26日,35頁
日経産業新聞(1997)「情報ハイウェイ、99年度までに基幹回線―岡山県39モデル実験」,『日経産業新聞』1997年1月22日,3頁
吉備高原都市HP:http://www.kibicity.ne.jp/ (2017年06月06日確認)

The following two tabs change content below.
鳴海 行人
matinote仕掛人・ライター・マネージャー(編集長) 90年生まれのまち探訪家。 地域を俯瞰的に見つつ、歴史を掘り下げて現在の姿への系譜を探りながら、まちを観察をしています。地誌・地方都市・総合交通体系・ロードサイド・観光・空間デザインなど様々な視点を駆使し、まちを読み解くことがひとつの楽しみです。