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【まちづくり】上尾の玄関口づくりとジャスコが作った「百貨店」-上尾駅東口再開発

 埼玉県上尾市は、22万人が暮らす埼玉県南部の都市です。高度経済成長期に東京のベッドタウンとして急速に発展したため、1970年代から1980年代にかけて、市の玄関口である高崎線上尾駅前の市街地整備が大きな課題として持ち上がりました。
 特に東口では、狭隘な商店街が形成され、その商業地域としての力不足や交通面での課題を指摘されるようになり、1970年代より東口周辺の再開発構想が動き出します。
 今回は、上尾市が威信をかけて行った上尾駅東口再開発事業を取り上げてみたいと思います。

 

上尾駅周辺の現況。昔は西口に西友、キンカ堂、忠実屋(ダイエー)も存在した

 

東口の”危機感”

 高度経済成長期以前まで、上尾駅は地上駅舎であり、改札口も東側にしかない時代が長く続いていました。しかし西上尾第一団地などをはじめとする大規模住宅開発が西側に集中したため、駅西側に存在した工場を撤去して、駅舎を橋上駅としたうえで西口を開設することとなり、1969年に駅西口の整備事業は完成を見ました。
 西口には西友が同年出店したほか、上尾の若手商店経営者20人によって作られた共同商店街「モンシェリーヴィル」などが注目を集め、上尾の買い物客が西口側へと流れるようになっていきました。さらに大きな視点で見ると、そもそも当時の上尾市民はその4割が上尾市外で買い物をしているという統計もあり、これらの現実に東口の商店主たちは危機感を感じるようになったと言います。

 

従来にない商業施設の形で市民の支持を得た「モンシェリー」。現在は役目を終え、静かに余生を過ごす(撮影:鳴海行人・2017年)

 

 こうした流れと、1972年2月の上尾市長選で当選した市長が駅東口の開発を公約としていたことで、上尾駅東口の再開発事業が大きく動き出すことになります。まず9月に、官民一体の「上尾駅東口開発推進協議会(以下:協議会)」が発足します。
 協議会は様々なアンケートや講演会を行いながら、1975年に「上尾駅東口市街地再開発事業基本計画」を策定し、関係各所との調整を経て、1978年に市街地再開発事業として都市計画決定に至りました。
 決定した計画は大型の再開発ビル3棟を整備する駅前広場の周囲に配置し、駅前広場の上部にペデストリアンデッキを設置して、各再開発ビルと駅をつなぐというものでした。
 そのうちの南側1棟(A棟)は大規模商業施設として、地域待望のショッピングセンターを計画することになります。地権者もテナントとして入居しつつ、再開発によって新たに生まれた敷地である保留床に入る核テナントが必要となり、その募集には西友、イトーヨーカドー、ジャスコ(現:イオン)の3社が意欲を示し、このうちジャスコに内定することとなりました。

ジュニアデパート「ボンベルタ上尾」の誕生

 ただ市民の要望として大きかった業態は、総合スーパーである「ジャスコ」ではありませんでした。買い回り品について、大宮や都心へと流出してしまっているという課題もあり、地域では百貨店を誘致したいという声が大きかったのです。そこでジャスコ側では、新しい百貨店業態を開発し、その形で出店することにしました。
 最終的には、買い回り品を強化した「ジュニアデパート」という位置づけで、名前も「ボンベルタ上尾」として従来のジャスコの店舗とは一線を画す、他にはない百貨店業態に近いものとなりました。運営の法人も地域法人を新たに設立し、地域密着型の運営を行っていくこととしました。
 1981年には再開発地区の呼称が「アリコベール上尾(フランス語で「さやいんげん」の意)」に決定し、1983年9月に再開発事業が竣工、再開発ビル3棟が一斉にオープン、駅前広場も供用開始となりました。A館は先述の通りジャスコによる「ボンベルタ上尾」、向かいのB館は「東武サロン(結婚式場)」、駅に隣接するC館は「東武ホテル」といった陣容での開業です。
 ボンベルタ上尾の開業時には、面白いエピソードが残っています。開業日、お店には9時の開店を前にして多くの市民が列を作っていました。その中には「ジャスコが出店する」と思い、普段着のままで来店した市民が複数おり、いざ中に入ると高級な百貨店だと知り、慌てて家に帰っておめかしをして出直した…というものです。市民のために百貨店をという要望であったにもかかわらず、いざふたを開けてみるとボンベルタ上尾が百貨店だという認識は市民の間で今一つ広がっていなかったともとれるエピソードです。
 実際ボンベルタが狙っていった価格帯に市民はついていけなかったようで、開業後は売り上げが伸びてはいるものの、当初の目標年商140億円に対し開業初年度は年商64億円と厳しい船出となりました。

 その後も周辺との厳しい競争に晒されます。アリコベールへの出店で争ったイトーヨーカドーは、駅西口の昭和産業の工場跡地に1988年に出店。アリコベールの大きな脅威となっていきます。また上尾に限らず、近隣の大宮や桶川で大規模商業施設の開業が相次ぎ、加えてこの頃になるとロードサイド商業との競合も激しいものとなっていき、日用品はイトーヨーカドー、高級品は大宮でという構図の中で、ボンベルタ上尾に対する逆風は厳しくなる一方でした。
 ボンベルタ側も価格帯を落としたり、一方で婦人服の強化としてDCブランドを導入したのち、2年で見直しを検討したりするなど、迷走が続きました。1万4000㎡という若干小規模な売場面積もボンベルタにとっては負の材料として働き、ついに1992年、ボンベルタ上尾は撤退することとなりました。

 

ボンベルタは現在千葉県の成田店と別法人の店舗が宮崎県に残存している。写真はボンベルタ成田店(撮影:かぜみな・2017年)

 


 その前から、ボンベルタ上尾はビルを管理運営している第三セクターの上尾都市開発(株)に対し、賃料の値下げを交渉していたのですが、上尾都市開発側がその値下げには応じられないとして、「新たなテナントを」との方向を打ち出してきたのです。結局ボンベルタ上尾は1992年の8月をもって、9年間にわたる営業に幕を下ろしました。
  ジャスコ側もボンベルタ上尾の撤退に際して、今後は地価の高い駅前から地価の安い郊外でボンベルタの業態を試していきたいとし、実質上尾での取り組みは失敗に終わった形となりました。

丸広の出店とひと騒動

 ボンベルタの撤退後、後継となる核テナントとして真っ先に上がった名前は、川越市に本店を置く埼玉の地場百貨店「丸広百貨店」でした。
 この撤退に際して、一番のダメージを受けたのは、アリコベールのオーナーであった上尾都市開発(株)でした。ボンベルタ側へ返す敷金や保証金などがかさみ、もともとの借入金を合わせて80億円の負債を抱える状況となったのです。そこで上尾都市開発は思い切った手に出ます。テナントとして入るはずだった丸広側に、ビルごと60億円で売却する仮契約を結んだのです。
 当時の資産価値でも100億円を超える物件であったために、法外な安値で売買がされたと市民の間では問題視されることとなりました。上尾市が上尾都市開発に対して10年間で21億円を無利子で貸し付けることを決めたのが、さらに市民の反発を招くこととなりました。結局丸広は上尾店として1992年10月に開業。ビルは仮契約通り60億円で売却され、ビルは丸広の所有となりました。

 

ボンベルタ退店後、1992年にビルごと買収し開業した丸広百貨店上尾店(撮影:鳴海行人・2017年)

 

いまの上尾から

 上尾駅東口の再開発事業が竣工してから、今度はその事業に触発される形で当地区と中山道に挟まれたエリアでの再開発事業が行われることとなりました。しかしこちらの再開発事業はバブルの崩壊もあって長期化することとなり、現在でも事業中のままとなっています。ただ駅前広場に入る交差点の一角は事業が一部完成し、「エージオタウン」として商業施設とマンションの複合施設が2013年に開業しています。

 

中山道東側の再開発事業は景気低迷もあり長期化している。記念碑からも苦労が伝わる(撮影:鳴海行人・2017年)

 

 丸広の開業以後、上尾駅東口の再開発地区では大きな変化がないまま推移してきましたが、丸広百貨店上尾店が、ボンベルタ上尾が営業していた時期よりも厳しい経済情勢のなか生き残っていることを考えると、商業施設にとって賃料というのは非常に大きな支出のウェートを占めることが分かります。結果的に上尾駅東口は、百貨店が立地する駅前として、市民の顔としての風格は十分に兼ね備えましたが、大宮や都心と互角に張り合う商業集積を目指すという目標は果たせませんでした。しかし、近隣の桶川や鴻巣などの状況を見るに、1970年代から大規模な駅前整備に対する関心があったということは決して無駄ではなかったように思います。

 ボンベルタが営業していた頃よりも商業施設の競争は一段を激しいものとなり、上尾でも西側の郊外にセブン&アイによるアリオ上尾が開業、そのほかイオンモールの開業計画もあるなど、時代は中心市街地間の競合から中心市街地対郊外の構造へと変化しました。
 この変化に対し、上尾の中心市街地がどのように対応していくのか、先見の明をもって再開発事業に取り組んだ上尾商業界の真価が問われるときが来ているように思います。

参考文献

上尾市HP:https://www.city.ageo.lg.jp/index.html(2017年6月24日最終閲覧)
丸広百貨店HP:https://www.maruhiro.co.jp/(2017年6月24日最終閲覧)
ボンベルタHP:http://www.bonbelta.co.jp/(2017年6月24日最終閲覧)
上尾市(1997)『上尾市史 第八巻 別編1 地誌』,pp.184-185,296-304.
金成文夫(1990)『ルポ激戦地を行く、「上尾」(埼玉県)』(所収『商業界』43(4)(524)、商業界),pp195-198.
上尾市(1984)『明日の上尾を拓く』
日本ショッピングセンター協会(1983)『ショッピングセンター』11月(121),pp3-9.
友光富雄(1982)『〈上尾市上尾駅東口〉―上尾都市計画事業上尾東口第一種市街地再開発事業―』(所収『都市再開発』(97),東京都市再開発推進会),pp.55-60
朝日新聞朝刊埼玉『市民151人が上尾市長提訴、第三セクタービル売却関連/埼玉』1993/03/18付
朝日新聞朝刊埼玉『監査請求はすべて棄却、上尾駅東口ビル売却で市監査委員が判断』1992/10/04付
朝日新聞朝刊埼玉『ボンベルタ撤退で多額負担の第3セクターに21億円貸し付け、上尾』1992/09/03付
朝日新聞朝刊埼玉『「売却代金が安く不当」上尾駅東口商業ビル売却で元市議ら監査請求』1992/08/06付
朝日新聞朝刊埼玉『「ボンベルタ」撤退へ、代わりに丸広百貨店進出、埼玉のJR上尾駅前』1992/06/19付
日経流通新聞『丸広百貨店――投資抑え収益改善、採用減や仕入れ条件改定(地方流通試練のとき)』1993/11/25付
日経流通新聞『丸広百貨店、埼玉・上尾に出店―生鮮品の品ぞろえ充実』1992/10/29付
日経流通新聞『ボンベルタ上尾(埼玉)撤退―売り上げ伸びず、同業態展開駅から郊外へ』1992/05/21付
日本経済新聞地方経済面『百貨店のボンベルタ上尾、8月までに閉鎖―丸広百貨店が進出打診。』1992/05/17付
日本経済新聞地方経済面『中山道東側で再開発―上尾市内、オフィス用中心』1990/03/06付
日本経済新聞朝刊『ボンベルタ上尾、外商事業を強化、担当者倍増へ』1988/10/03付
日経流通新聞『「ヨーカ堂」に対抗食品売り場を改装、ジャスコ系のボンベルタ上尾』1988/01/30付
日経流通新聞『ジャスコのボンベルタ上尾、若者狙い大改装-来期年商120億目指す』1986/12/01付
日本経済新聞地方経済面『上尾駅東口再開発第2弾、中規模ビル群建設へ―事業主体は地元権利者』1984/05/10付
日本経済新聞地方経済面『国鉄上尾駅東口の「アリコベール上尾」、初日の23日は10万人の人出。』1983/09/25付
日本経済新聞地方経済面『顧客流出から流入へ―上尾市の再開発事業完成、福祉のまちづくりにも一役。』1983/09/14付
日経産業新聞『東武食品サービス、埼玉・上尾の再開発ビルに上尾東武ホテルと式場のサロンを開業。』1983/09/14付
日本経済新聞地方経済面『ジャスコ、上尾駅東口再開発ビルに新タイプの百貨店を9月にオープン』1983/04/29付

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渦森 うずめ

都市という現実の中に漏れ出す夢や理想を商業空間に見出して遊んでいます。逆にコンテンツという夢や理想から現実を救い上げるのもすき。つまりは理想と現実を渡り歩く放浪者(?)。消えそうなファーストフードチェーン「サンテオレ」を勝手に応援中。