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【まちづくり】難題続きの駅建設とその街のいま-「北上尾」をめぐる謎:第2回

 前回は計画段階でのさまざまな反対運動や経緯をご紹介しました。しかしその最中で建設を半ば強行的に始めてしまい、そういった課題や反対運動は依然残されたままでした。
 そんな北上尾駅西口を見てみると、駅通路が不自然に曲がっていることに気づきます。これは前回説明した上尾高校移転に絡んで、駅前広場がずれたことによるものですが、この駅通路がとある市道を不自然に跨いでいることに気づきます。実はこの市道が再び論争を巻き起こすこととなります。

 

不自然に道路を跨ぐ北上尾駅の駅通路(撮影:鳴海行人・2017年)

 

市と市民の会との攻防

 

北上尾駅周辺の現在の位置関係(OpenStreetMapで作成)© OpenStreetMap contributors

 

 教育と開発と住民自治を考える市民の会(以下:市民の会)による駅建設反対の最中、上尾高校の移転も棚上げされたまま、駅の建設工事は1987年の8月に開始されました。市民の会はこの疑惑の事業に対して調査を続けていましたが、それによって6月に駅予定地の西側、現在でいう下りホームと上尾高校の敷地の間にある市道が、道路法第10条1項「生活に供する必要の無くなった道路」として廃道にする議会承認を得ていたということが分かりました。実態として利用がある道路であったため、市民の会はこれを不当な廃止だとして7月に市道廃止処分を取り消す訴訟を起こすこととなったのです。
 上尾市が市道廃止を行ったのは、市道が計画されている駅舎やホームと掛かってしまうためでした。前回取り上げた駅建設の条件のため、こういった措置を取らざるを得なくなったのです。市民に対しては「駅前広場」の場所として必要だと説明し、一方議会では「市民が利用しなくなったため」と説明しており、その矛盾が市民の会の不信をさらに募らせることとなりました。この市道に関しては、市民の会の調査の中で、1983年度の国庫補助事業によって歩道が整備されたばかりであることがわかり、税金を投入した道路が4年で廃道になっていたという事実も明らかになっています。

 

廃止されていたことが明らかになった市道。結局自動車が入れない遊歩道として整備しなおすことで国庫補助事業の意味合いを満たすものとして解決を見た(撮影:鳴海行人・2017年

 

 一方で前回でも取り上げた上尾都市開発(株)の「市民の寄附を期待する」旨の文書を受けて、駅建設促進期成同盟会(以下:同盟会)は6月に駅の建設費用負担について、「市民に対して3億4千万円の寄附」を求める決定をしていました。それだけに、反対運動はとりわけ大きいものとなっていきました。

駅建設の顛末

 その流れの中で行われた1988年2月の上尾市長選挙では、駅建設推進の旗手であった旧市長が落選し、北上尾駅建設の見直しを訴えていた市長が当選しました。そのため1988年5月、駅の建設工事はいったん中断されます。
 しかし、市民の会の調査により計画の内実が明らかになるにつれ、早期の幕引きを図るべきと考えたのか、その姿勢を次第に「駅早期開業」へと転換させていくことになります。結局財政上の確証が得られないまま、一時中断していた駅建設工事の再開が決まり、11月開業を目標として7月末には工事が再開することとなります。
 寄付によって集めるとされた建設費用は、結局のところ2700万円ほどしか集まっていなかったことを踏まえ、同盟会は9月末に総会を開き、会長に上尾商工会議所の会頭を新たに選出し、駅用地の買収費用を、上尾市財界を挙げて集めることとしました。もともと同盟会が負担するのは駅建設費用の半額分としての3億4千万円であったはずなのですが、駅建設費用はさしあたって上尾都市開発(株)がJR側に全額を払ってしまっていたため、駅用地の買収費用として同額を集めることとなりました。
 11月には上尾市が土地買収を終え、JR側に無償譲渡したうえで、同盟会が上尾市に3億4千万円を支払うこととなりました。しかし募金では到底期限的に間に合わず、同盟会が銀行から借り入れ、その後の募金活動で返済していくことになりました。
 結局この借金は商工会議所が銀行から借り入れたものが同盟会へと貸し付けられて補てんされていたことがのちに明らかになっています。

 その後上尾都市開発(株)が他の工事で契約違反や文章改ざんを行ったことや、上尾高校に与える騒音や生徒への影響対策として設置が決まったフェンスについてJR側と市側で意見の相違が出たことなど、あがってくる課題は枚挙にいとまがありませんでした。
 その最中同盟会は10月末にJRと市に12月開業を申し入れ、1988年12月17日、北上尾駅は様々な問題を棚上げにしつつも、ようやく開業の日を迎えたのでした。開業当日、市民の会は開業を祝う式典に弔いのお経を流し、ごみ袋にヘリウムを入れ「疑惑」と書いた黒い風船を掲げるなどのデモンストレーションを行ったと言います。

 実は市長が「早期開業」へと舵を切ったのには理由がありました。1989年の7月に、朝霞市の不動産業者が上尾市から2000万円を脅し取ったとして逮捕されるという事態が起こったのです。この会社は同盟会の寄付の募集にあたって、土地の値上がりを期待して2000万円を同盟会に寄付していましたが、計画が遅れ、さらにその不穏な動きが噂されるようになっていたため、2000万円を取り戻そうとして。1988年の10月~12月にかけて上尾市を脅迫し、上尾市も1989年3月に2000万円を同盟会への市の補助金の中から支払っていました。
 この業者と上尾市との間では2000万円の他に様々な衝撃的な事実が明るみに出ました。開発計画を市側がリークする代わりに市職員が現金を受け取っていたこと。駅開設が明らかになる前の1985年頃から駅西口の土地を買い占め、市の公社へと転売していたこと。1987年の1月ごろから市民の会の活動を妨害し、脅迫を行っていた右翼団体に市道廃止異議申し立て書と住民の名簿が市から流出していたことなどです。

 

西口駅前広場の様子。広場を整備するまでは不動産業者による「これでいいのか北上尾」という立て看板が設置されていた(撮影:鳴海行人・2017年)

 

 こういった「汚職」は全国報道によって全国民に知られることとなり、1989年の11月、上尾市はついに独自調査によって駅建設計画に関わった市職員16人を退職処分にします。さらに財政上の負担も大きくのしかかり、最終的に上尾商工会議所が3億円の負債を抱えることとなりました。上尾市の未来をになうはずの新駅開設によって、市民はもちろん、上尾市も最終的には大きな痛手を負うこととなったのでした。

北上尾の今は

 駅開業後、周辺地域の人口は増えていったようですが、複雑な経緯で設置された駅であることもあり、駅周辺の整備はかなり遅れることとなりました。上尾高校側はすでに駅開業前から先行して土地区画整理事業を行っていましたが、駅の東側では駅の開業後の1991年から土地区画整理事業が動き出すことになります。

 また、駅の東口正面には上尾公園という市民公園がかつて存在していました。当時皇太子だった天皇陛下のご成婚記念として1959年に造園され、「プリンス公園」の愛称で親しまれていた公園でしたが、土地が40年契約の借地であったことや、国道17号線から北上尾駅東口に入るアクセス道路がなく、その道路を整備するために公園の移転が必要になり、1998年に閉園し、地権者に土地が返還されました。
 その跡地は大規模商業施設が建設されることになり、「上尾ショッピングアベニューP・A・P・A」が2000年に上尾公園跡地に完成、オープンしています。「P・A・P・A」は北上尾駅東口と国道17号線とのアクセス道路の両側に建ち、それぞれ「プリンス館」「プリンセス館」と名付けられ、上尾公園が存在した土地の歴史を静かに伝えています。

 

上尾ショッピングアベニューP・A・P・A。左(北側)がプリンス館、右(南側)がプリンセス館で、渡り廊下によって連結している(撮影:かぜみな・2017年)

 
 現在ではアリオ上尾などの郊外型大規模商業施設の台頭もあり、開業時ほどの勢いはないようですが、開業時は県内最大級の商業施設として周辺住民のみならず多くの来場客を集めたようです。「P・A・P・A」の特徴として、イオンやセブン&アイ、三井不動産などといった大手資本が一切入っておらず、地元の企業によって運営されていることがあります。そのためなのか、どこにもない雰囲気と魅力があります。
 その後2008年には東西の駅前広場が整備され、駅東口の土地区画整理事業も2014年に竣工し、北上尾駅周辺の整備事業は一応の完成を見たのでした。

まちを作ることの難しさ

 北上尾に関する内容を2回に分けてご紹介しましたが、まちをつくるには様々な方面へ調整を行わなければならない難しさがよくわかります。
 特に北上尾駅の場合は住民が声を上げたことでその計画が大きく変わることとなりました。大規模開発計画を否定するのではありませんが、住民がその計画に関心をもって、自分のこととして捉え、考えることは大事なことなのかもしれません。
 この地に地元の企業による商業施設が建てられたのもただの偶然ではないように思います。「自分のまちは自らの手でつくる」……過去を反省した、そういった確固たる意志のようなものが見えるような気がしてならないのです。

関連記事

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参考文献

上尾市HP:https://www.city.ageo.lg.jp/index.html(2017年6月21日最終閲覧)
PAPA上尾ショッピングアベニューHP:http://www.papa-ageo.com/(2017年6月22日最終閲覧)

田島俊雄(2005)『ドキュメントJR第1号駅「北上尾」-開発・利権との闘い』時潮社
上尾市教育委員会(2001)『上尾市史 第7巻 通史編(下)』上尾市
上尾市教育委員会(1997)『上尾市史 第8巻 別編1 地誌』上尾市
田島俊雄(1988)『「北上尾駅」計画と市民運動-埼玉県上尾市で、いま、起こっていること』「技術と人間」17(10)(182),30-40.
朝日新聞埼玉『見切り発車 背景に「大規模開発」(検証北上尾駅:上)』1988/12/17付
朝日新聞埼玉『打ち続く疑問 寝耳に水の高校移転(検証北上尾駅:中)』1988/12/18付
埼玉新聞『「P・A・P・A」オープン。有名専門店43県内最大級』2000/11/17付
日本経済新聞地方経済面『SC・大型店 開業の波。変わる県内商業地図』2000/11/17付
日本経済新聞地方経済面『JR北上尾駅前「プリンス公園」跡地、大型SC来年5月開業、核店舗にマミーマート。』1999/04/21付
日本経済新聞地方経済面『北上尾駅建設期成同盟会、上尾経済界が全面協力――会長に商議所会頭。』1988/10/01付
毎日新聞地方版埼玉『再開発などで、樹齢40年の桜を伐採へーー上尾公園、名残惜しむ住民ら/埼玉』1998/04/25付
読売新聞埼玉『この街に生きる、上尾の巻その5。北上尾、駅周辺の整備で人口急増』2008/12/23付

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渦森 うずめ

都市という現実の中に漏れ出す夢や理想を商業空間に見出して遊んでいます。逆にコンテンツという夢や理想から現実を救い上げるのもすき。つまりは理想と現実を渡り歩く放浪者(?)。消えそうなファーストフードチェーン「サンテオレ」を勝手に応援中。