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仙台中心部商業のいままでとこれから―仙台市一番町・中央通り地区

 宮城県仙台市の中心部は、仙台駅西口から仙台三越まで1km強あるアーケード商店街が続きます。前回はそうした奥行きのあるまちのすがたについて触れました。
 そして、そのアーケード商店街が続く仙台の中心部は、歴史的な成り立ちから「一番町地区」「中央通り地区」「仙台駅地区」と大きく区分することができます。
 このうち一番町地区や中央通り地区は、商業集積地としての歴史が長く、近世の都市構造にそのルーツを求めることができます。この2地区を含めて、仙台の商業地区は近世から少しずつその重心を移動させてきました。
 今回はそんな近世以来の変遷を追いかけながら一番町地区や中央通り地区のいままでとこれからについて詳しく取り上げます。

 

仙台市中心部を示す地図 (作成:かぜみな) (OpenStreetMapを元に作成) ©OpenStreetMap contributors

 

南北軸の移動-国分町から東一番丁(一番町)へ

 近代的な都市としての仙台は、江戸時代初期に仙台城に入城した伊達政宗が行った、城と城下町の整備事業にその端緒を求めることができます。慶長6(1601)年から着手されたこの整備事業は「仙台開府」と呼ばれ、現代に通じる町割り、都市構造はこの時に形作られました。そんな仙台開府事業では、城下内に奥州街道を引き入れ整備した南北の通り「国分町通」、青葉城大手門から東へ一直線に貫く東西の通り「大町通」を軸とした都市整備が行われました。この2つの道路沿いには町人町が整備され、江戸時代に商業の中心を担っていたのは主にこの2地区でした。そんな国分町通と大町通との交点である「芭蕉の辻」は、仙台城下町の「核」として賑わいを見せることになります。

 この体制に変化が訪れることになるのが明治維新による幕藩体制の終焉でした。国分町通の一本東側の通り「東一番丁(現在の一番町商店街)」は幕末まで武家地として存在していましたが、そこに住んでいた山家豊三郎が、明治維新後東京や横浜を見たうえで、仙台で「山家横丁」を開きます。これをきっかけとして、劇場や洋食屋をはじめとする「新しい商い」が多く集まる新興の歓楽街として少しずつ成長を始めるようになりました。

 

歓楽街としての、現在の国分町の姿は1960年代以降形成されたものだ (撮影:夕霧もや・2014年)

 

 大正末期ころまでは国分町通沿いも繁華街としての地位を保っていましたが、その機能が移転する形で、明治末から大正時代にかけて、一番町は歓楽街から本格的な商店街へと変化していくことになります。明治12(1896)年には仙台を代表する百貨店「藤崎」の前身である藤崎呉服店が一番町と大町通の交点近くの現在地に移転、昭和8(1933)年には一番町の北端に三越仙台店(仙台三越)が開業し、前年に近代的な店舗を増築していた南の藤崎、北の三越に挟まれた一番町は東北を代表する商業地区としての地位を確固たるものとします。

東西軸の重心移動-大町から東へ

 また、東西軸であった「大町通」にも変化が訪れます。明治20(1887)年に東北本線が開通し、仙台駅が現在の位置に開設されたことで、東西軸であった大町通の賑わいが次第に東へと移動し、大町通の延長線上にあり、駅に近い新伝馬町(現:中央二丁目・クリスロード)、名掛丁(現:中央一丁目、二丁目・ハピナ名掛丁)が、仙台駅と国分町・一番町を結ぶルートとして賑わうようになったのです。そもそも先述した「藤崎」も創業時はより青葉城に近い大町二丁目に店舗を構え、大町通沿いに東へと移転を繰り返してきた歴史があり、まさに重心の移動を象徴する現象であると言えます。大町通の西部(大町一~三丁目)では、青葉城址に開かれた第二師団司令部をはじめとする軍関係施設を相手とする商店などが代わりに見られるようになっていきます。

 

重心の移動に対応して店舗移転を繰り返してきた地場百貨店「藤崎」 (撮影:かぜみな・2018年)

 

 仙台駅開業以降人通りが増加した新伝馬町はその名の通り、江戸期は伝馬の宿駅として栄えていましたが、明治期以降、物資の集散地である伝統を引き継ぎ、卸売主体の商人町へと変化していきます。一方名掛丁は江戸期には仙台藩の組士たちの屋敷があり、当時は商業的な様相はないエリアでした。しかし仙台駅が開業してからは駅に面しつつも国分町・一番町への近道でもあるという抜群の立地へと変貌し、大正期にかけて急速に商店街が形成されていったといいます。こうして現在の「L字型」とも総称される仙台の商店街の原型が形作られることになります。

 

現在では仙台屈指の繁華街となった「ハピナ名掛丁」。「町」ではなく「丁」を用いるのは武家町だった当地の歴史に由来するものだ(撮影:かぜみな・2018年)

 

アーケードの整備と仙台駅西口の発展

 1945(昭和20)年7月の仙台空襲によって、中心市街地は焼け野原と化してしまいます。そのため戦後仙台では戦災復興土地区画整理事業が行われることになりますが、仙台がもともと比較的整理された直線街路が多かったこともあり、近世以来の区割りを活かす形で道路の拡幅、新設が行われ、国分町、一番町、大町といった「目抜き通り」はそのまま残されることとなりました。

 戦後になると大町の西側、国分町は商業地区としての役割を終えることになります。ただ芭蕉の辻周辺は、戦後GHQの占領下時代には東北民政府が置かれ、その後日本銀行の支店が開設されたこともあり、多くの金融機関が集まるオフィス街としての様相を強めていきます。一方で一番町の商業拠点としての発展は続き、1954年には一番町に東北初のアーケード(片屋根式)が完成し、1964年には新伝馬町に東北初の全蓋式アーケード、翌年には大町五丁目(一番町~東二番丁通)、名掛丁にもアーケードが完成し、中央通りがアーケードで連結するとともに、一番町ともアーケードがつながり、仙台駅前から濡れずに一番町まで歩くことができるようになります。

 

ダイエー仙台店(現:イオン仙台店)の躍進は、仙台商業の構造を大きく変えることとなった(撮影:かぜみな・2018年)

 

 高度経済成長期に入り、仙台市街地に東京資本の大型店が出店するようになると、一番町の地位に変化が訪れるようになります。1960年代の大型店は一番町に店舗を構える傾向にありましたが、1970年代以降になると仙台駅西口か、一番町より仙台駅に近い中央通り地区に店舗を構える傾向へと変化しました。代表的な例としては1975年に開業した現在のクリスロード付近に店を構えた「ダイエー仙台店(現:イオン仙台店)が挙げられます。同年、一番町と広瀬通の交点に「ジャスコ仙台店」も開店しており、総合スーパー同士の競争が注目されましたが、結果は「ダイエーの圧勝」に終わります。歴史的な立地の優位性からジャスコの勝利を予想した流通関係者も多かったのですが、ダイエーの開店以降、中央通りの存在感が一挙に高まり、相対的な一番町の地位低下が明らかになった形となりました。結局ジャスコは総合スーパーとしての営業を断念し、1983年にファッションビル「仙台フォーラス」に店舗を変えることとなりますが、商店街側でもこのままで商業の重心がさらに仙台駅側へ移りかねないという危機感から、一番町商店街(現:ぶらんどーむ一番町)では、終日歩行者天国化を含めた商店街の近代化を打ち出し、買物公園化する改修工事に取り組みます。工事は1979年に完成し、歩行者減に歯止めをかけることに成功しました。その効果を目の当たりにした一番町四丁目商店街(現:一番町四丁目買物公園)や一番町大通り商店街(現:サンモール一番町)がその後に続き、商店街の近代化に取り組むことになります。

 

ぶらんどーむ一番町、サンモール一番町の完成で、「買物公園」のスタイルをとどめるのは「一番町四丁目買物公園」のみとなった(撮影:かぜみな・2018年)

 


 そういった動きはあったものの、1982年の東北新幹線の開業による仙台駅ビル「エスパル」の開業や、一番町他の中心部各所にあった「緑屋」を閉鎖、統合する形で「ams仙台西武」が駅前に出店するなど、仙台駅前への大型店出店は加速する一方でした。

「市街地全体」の停滞と交通網の整備による東北の「首都」としての仙台

 1980年代後半から、石巻市や古川市といった仙台以外の県内各都市で商業集積が進むようになり、今度は仙台の「外」との競争が激化し始めます。1985年の調査では史上初めて「仙台商圏」が縮小したことが報告されるなど、その影響は看過できるものではなくなっていきました。
 仙
台市では1987年の地下鉄南北線勾当台公園駅開業に合わせ、仙台駅から面して最奥にあたる、仙台三越や一番町四丁目商店街が立地する勾当台地区を活性化するため、再開発事業で「141ビル(現:仙台三越定禅寺通り館)」を建設するなど施策を次々と打ちだします。そのほか一番町商店街や中央通り地区でも、バブル期の前後にアーケードを架け替えるなど、さらなる設備更新に取り組んでいくことになります。しかしバブル経済崩壊以降、駅前地区を含めた仙台市街地そのものが次第に停滞するようになっていきます。

 

ぶらんどーむ一番町は1993年にかけ替えられたもの。それまでは一番町四丁目同様の買物公園だった(撮影:かぜみな・2018年)

 

 そうした形で仙台周辺からの求心力が低下した代わりに、仙台中心部に訪れるようになったのが、東北他県の若者たちでした。とりわけ2000年代以降に彼らが仙台へやってくるようになった背景には、東北地方の高速道路網の充実と、それによる高速バス路線の拡充がありました。鉄道よりも安価な高速バスによって仙台と東北各都市が結ばれたことで、気軽に仙台への日帰りショッピングが可能になったのです。そして仙台フォーラス前にある「広瀬通一番町」バス停や、東二番丁通りとクリスロードやマーブルロードおおまちの交点近くに設けられた「電力ビル前」バス停が、高速バスにおける「仙台の玄関口」として機能することになります。また、東北新幹線の延伸や増発も続いたことで、仙台中心部では、2000年代以降は次第に東北一円を意識した店舗戦略や施策が活発になっていきます。店舗も次第に吸引力が強く「広域商圏」を意識した国際色の強いショップが増加するようになり、中心部は意外な形で低迷期を脱出することになります。

 

一番町と広瀬通の交点に位置する「仙台フォーラス」。目の前を高速バスが多く発着するようになり、若者が増加したという(撮影:かぜみな・2018年)

 

 こうして仙台駅以外にも他県との「玄関口」を中心部にも得ることで、現在も見られるような東北一円から仙台に集客し、仙台駅西口から一番町の商店街の奥まで人通りが多い様子はこの頃におおむね形成されました。一方で仙台中心部での大型店出店は1998年の「AER」、2008年の「仙台パルコ」「エスパルⅡ」と、変わらず仙台駅周辺を中心として進みました。こうした商業施設はいずれも若者向けの施設ばかりで、「若い人は仙台駅周辺に集まる」という傾向は一層強まっていきます。一方で2016年に開業した「仙台パルコ2」「エスパル東館」では30~40代の利用客が目立ち、今までの仙台駅周辺の店舗とは違った傾向を見せています。ここ数年は仙台駅周辺の商業施設に集まる年齢層が拡大する傾向があり、近年は支持層の世代差で仙台駅地区と差別化が図られていた中心部商店街地区では、再び仙台駅周辺地区との競争に立ち向かうことになります。

 

上:近世の仙台の構造、下:現代の仙台の構造。東へ、駅へと吸引されている様子がわかる(作成:かぜみな)

 

中心部商店街の今後は

 こうした形で、浮き沈みを繰り返しながらも、歴史ある中心商店街として、現在まで生き続けている一番町や中央通り地区ですが、「仙台パルコ2」「エスパル東館」が開業した2016年では、商店街地区で通行量が5%減少したという結果が出ました。しかし2018年の仙台初売りでは中心商店街でも売り上げが回復したといったデータがあり、直近の商店街地区の状況を2016年のインパクトが一段落し、仙台駅での集客効果に加え、利用客が一番町方面へ流れるようになったという分析も見られるようになり、仙台駅前の商業施設が仙台中心部全体のポテンシャルを上げることに繋がり、商店街地区も思わぬ幸運に見舞われることになりました。これは各商店街がアーケードの架け替えや仙台七夕などといったイベントの開催など、伝統を大事にしつつ時代に取り残されまいと行ってきたことが今になって功を奏しているように感じます。しかし、今度は若者のブランド意識の低下もあり、東北各県にある大型商業施設の地位が向上し、1980年代に起きた「郊外」との競争が、東北一円レベルでいま再び起きようとしています。「藤崎」「仙台三越」や一番町との連帯はすでに1980年代から見られますが、今度は駅前地区も含めた「オール仙台」で競争に立ち向かう時代が訪れるのかもしれません。

 次回は、そんな形で仙台の商業に大きな影響を及ぼしている地場百貨店「藤崎」を中心に、戦前から営業する長年のライバルである「仙台三越」を含めた仙台の百貨店事情について、取り上げていきたいと思います。

参考文献

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日本経済新聞地方経済面東北B「仙台駅前、一極集中に拍車、パルコ2開業、30代以上も取り込み、商店街に危機感、イベント計画。」2016/07/07付
日本経済新聞地方経済面東北「エスパル東館開業1年――栄える駅前、あえぐ中心街、街の回遊性、向上策探る(仙台変わる商業地図)」2017/03/17付

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かぜみな

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ダイロクマチノテ代表・ライター・ポエマー 本屋と商業施設に想いをはせて、夢の跡を(強行日程で)訪ね歩く詩の人。 商業施設を訪ね歩いたり、商店街を歩いたり、バスに揺られて山奥のニュータウンにいったり、最近は離島に行くフェリーに乗るのも好きです。