【商業】宮崎資本の百貨店、ジャスコの軍門に下る。「ボンベルタ」:第3回-ボンベルタ橘

 イオングループにかつて5店舗あった「ボンベルタ」は現在成田の1店舗を残すのみです。しかし、宮崎にも「ボンベルタ橘」という「ボンベルタ」の名を冠した百貨店があります。
 かつては地元資本の百貨店「橘百貨店」だった「ボンベルタ橘」。現在も地元資本に戻っていますが、それまでの間には波乱万丈な歴史がありました。
 今回は宮崎の地元資本の百貨店として市民に愛される「ボンベルタ橘」をクローズアップしたいと思います。

 
ボンベルタ橘の外観

ボンベルタ橘の外観 (撮影:鳴海行人・2017年)

 

宮崎の真ん中にある「おしゃれな地場百貨店」

 宮崎市の中心、橘通3丁目交差点の角には2つの百貨店があります。東にあるのが「宮崎山形屋」、西にあるのが「ボンベルタ橘」です。「宮崎山形屋」は鹿児島資本の百貨店で、「ボンベルタ橘」は地元資本の百貨店となっています。
 中を見ても2つの百貨店はかなりの差があります。高級志向の地方百貨店らしい作りと店づくりをしている宮崎山形屋に対し、ボンベルタ橘は若者やファミリー層を意識したスタイリッシュな内装も見られ、高級というよりはお洒落な服を選ぶことのできるテナントが多く入っている印象を受けます。
 また、来客層も店づくりにあった年齢層となっていて、ボンベルタ橘では若い人の姿を見かけることができました。
 地方都市の百貨店にしては「おしゃれ」な店づくりで頑張るボンベルタ橘。しかし、ここまでの道のりはすさまじいものでした。

 
宮崎市中心部の地図

宮崎市中心部の地図   (OpenStreetMapを元に作成) © OpenStreetMap contributors

 

鹿児島への対抗意識から生まれた百貨店

 宮崎は戦後まで大きな百貨店のない土地でした。加えて、宮崎市は近代になって新たに作られたまちということもあり、中心部が定まらず、まちの中心は橘通りの周辺をだんだんと北上していきます。
 そして太平洋戦争後に橘通りの北側に鹿児島の資本が続々と営業拠点を構える噂がたち、鹿児島に対抗意識のある一部の人々が「宮崎の人が作る宮崎の顔」を作ろうと動き出しました。中心となったのは日向興業銀行(のちの宮崎銀行)で、ほかには朝鮮戦争で儲けた木材業者をはじめとした人々が集まります。
 百貨店づくりのために大阪で阪急や高島屋を視察した後に高島屋と提携する算段をつけると、現在のボンベルタ橘東館の位置に土地を購入し、1952年10月に開業したのが「橘百貨店」です。
 橘百貨店の名前は橘通りの名前からとられ、最終的に鑑定士の判断を仰いで決定したそうです。
 その後、戦前から支店を構えていた山形屋も攻勢に出ていよいよ本格的な百貨店づくりに取り掛かります。それに対して橘百貨店は素人経営で赤字が続いていました。
 さらに山林事業とデパート経営の2足の草鞋を履いていた後藤良則社長がワンマン的経営を行いはじめ、橘百貨店の増築により事業を拡大したい後藤社長と銀行は何度も対立することになりました。結果として日向興業銀行改め宮崎銀行は橘百貨店のメインバンクから外れ、百貨店は安田信託銀行や福岡相互銀行などから大規模融資を受けるようになります。
 大規模融資により増築した橘百貨店は「びっくり市」の開催などで1957年以降にようやく経営が軌道に乗りはじめ、同時に後藤社長のワンマン経営化もさらに加速していきました。そして1960年代には多角経営に乗り出し、ホテルやゴルフ場を開業させていきました。

 
宮崎市の目抜き通り、橘通り

宮崎市の目抜き通り、橘通り (撮影:鳴海行人・2017年)

 

新規出店による経営悪化、そして経営破たん

 高度経済成長の波に乗って経営多角化を続けた橘百貨店はスーパーに対抗するために多店舗展開を模索します。まず県内南部の都城に目をつけ、支店建設をはじめました。ところが、当初計画では3階建ての予定が、いつの間にか8階建て回転ラウンジ付きの壮大なものとなり、土地買収の遅れも手伝って総工費は27億円もかかりました。
 1973年に都城店が開店したはいいものの、都城の中心部ではなく、の西側2kmのところにある都城駅前の開店であったことが響き、売り上げは芳しくありませんでした。
 そして時を同じくして宮崎では大型スーパーの出店が相次ぎます。1973年には高千穂通りに「寿屋百貨店宮崎店」(現在のカリーノ宮崎)、南宮崎駅前の宮交シティには「ダイエー」の「宮崎ショッパーズプラザ」が開業し、ほかにも「ユニード」や「いづみや」も出店してきて大激戦地になるのです。

 
南宮崎駅前にある「宮交シティ」(以前はダイエーショッパーズプラザ宮崎が入居していた)

南宮崎駅前にある「宮交シティ」(以前はダイエーショッパーズプラザ宮崎が入居していた) (撮影:鳴海行人・2017年)

 

 そんな中、橘通の西にあった橘百貨店の求心力は一気に低下、資金繰りも一気に悪化します。
 これには、橘百貨店内の士気が低かったことも原因としてあります。後藤社長のワンマン経営で従業員の士気は上がらず、接客や陳列もよくありませんでした。ダイエーの関係者は「陳列や商品管理がめちゃくちゃで”敵”として勘定にいれなかった」と言っており、このころの橘百貨店の実情がうかがえます。
 そして1975年8月2日、銀行の融資による救済がなくなり、手形の決済ができなくなったことで橘百貨店は経営破たんします。負債総額は約76億円。当時は全国の流通業界ならびに九州内では最大規模の倒産でした。
 倒産のウラには融通手形がもととなった手形詐欺やそれによるスーパーとの提携解消といったこともありましたが、いずれにしても資金が尽きたために「ある日、シャッターが開かなくなる」という劇的な倒産でした。

ボンベルタ橘の誕生

 さて、橘百貨店は経営再建を行うため、会社更生法を適用します。管財人としては宮崎銀行常務であった新坂氏が就きます。宮崎銀行が橘百貨店に救いの手を差し伸べたととらえられそうですが、あくまで新坂氏個人の気持ちによるもので、管財人になる直前に宮崎銀行常務の職を辞しています。
 1976年には当時スーパー業界第4位のジャスコによって買収されることが決まり、翌年頭に在庫一掃を行い一度閉店します。そして3か月後、「橘ジャスコ」として量販店型で再び営業を再開します。1982年には会社再建を完了し社名を「橘百貨店」に戻すと、1985年に今度は全館建て替えを計画します。この時、3500戸を対象に各家庭を社員が巡回。マーケットリサーチを行って店づくりに入念な準備を行いました。
 1986年秋にはユニードの閉店跡に仮店舗をオープンして建物の解体工事を開始、都市型百貨店としての再出発を模索します。この時の社長は「福岡に出しても恥ずかしくない店を作る」と言っており、店づくりへの並々ならぬ意気込みを感じます。
 そして1988年5月「シティクリエイト」をテーマにした都市型百貨店「ボンベルタ橘」がオープンします。「ボンベルタ」としては上尾に続く2店目となりました。おしゃれな内装と品揃えは若年層にうけ、「ボンで会おう」という待ち合わせの合言葉が生まれたといいます。
 ボンベルタ橘開業をきっかけに宮崎中心部では宮崎山形屋・寿屋宮崎店・ボンベルタ橘の3店舗で激戦が繰り広げられます。その後はほかのボンベルタ店舗との協調や商品開発を模索、そして広域型ショッピングセンターへの進出を目標とするなど橘百貨店時代とは大きく異なった施策に取り組んでいきました。

 
宮崎山形屋の外観

宮崎山形屋の外観 (撮影:鳴海行人・2017年)

 

 2000年代に入ると1970年代以来の大型総合店舗、イオン宮崎SCの計画が生まれます。2005年にイオン宮崎ショッピングセンターが開業すると、2007年にイオングループはついに橘百貨店のファンドへの売却を発表します。2003年をピークに売上高が減少していたためで、流通業専門のファンドへの売却により、ボンベルタ橘の増収・本業強化を狙いました。
 しかし翌2008年、ファンド社長が銃刀法違反で逮捕、そのためボンベルタ橘の経営陣を中心には橘ホールディングスを設立し、ファンドから全株式を取得しました。これによって32年ぶりに地元資本による百貨店が復活し、現在に至ります。

ボンベルタから考える「百貨店」

 「ボンベルタ」。名前は壮大ですが、1店舗毎の経緯を見ていくと実にまとまりに欠ける印象を受けます。イトーヨーカ堂の「ロビンソン」、ダイエーの「プランタン」といった総合スーパーの百貨店部門創設の動きに乗って作られ、持ち駒を「ボンベルタ」ブランドにしていったということをつい思ってしまいます。そのため、多店舗展開といったビジョンも見えず、あるのは広域型ショッピングセンターへの入居の可能性でした。しかし秋田では「中三」、岡崎では「西武百貨店」が入居するのにとどまり、「ボンベルタ」としての展開はありませんでした。
 広域型ショッピングセンターも今やショッピングモールとなり、百貨店業態は必要とされなくなっています。
 かつて総合スーパーが百貨店部門をもっていたことと店舗構造の変化による百貨店部門切り離し。こうした歴史から百貨店業態の特徴や強み、力を入れなくてはいけない点が見えてきそうです。

参考文献

読売新聞西部本社社会部(1977)「パクリ屋・手形詐欺師」読売新聞.
中村勝太郎(1997)「創業『橘百貨店』(その崩壊の因子)」 中村勝太郎.
財界九州(1990)「ニューフェースもいまや地元の”顔”」,『財界九州』31-5,114-115頁
日本経済新聞(1976)「ジャスコ、橘百貨店を買収―20日に正式調印、5年以内に新会社設立。」,『日本経済新聞』1976年9月8日号 朝刊,9頁
日本経済新聞(1976)「宮崎地裁、橘百貨店の更生計画案を認可。」,『日本経済新聞』1976年12月12日号 朝刊,3頁
日本経済新聞(1985)「橘百貨店、店づくりの参考に市場調査を実施―3500戸対象に。」,『日本経済新聞』1985年7月4日号 地方経済面 九州A,13頁
日本経済新聞(1986)「橘百貨店、旧アピロス店を仮店舗に―大店法に基づき宮崎県に届け出。」,『日本経済新聞』1986年4月11日号 地方経済面 九州A,13頁
日経流通新聞(1987)「橘百貨店(宮崎市)店舗取り壊し、都市型に変身」,『日経流通新聞』 1987年3月26日号,5頁
日本経済新聞(1988)「宮崎市が”流通戦国”の様相、「ボンベルタ橘」オープン機に―消費者の争奪必至。」,『日本経済新聞』1988年5月3日号 地方経済面 九州A,13頁
日経産業新聞(1995)「イオングループ、ボンベルタ孤立深める」,『日経産業新聞』1995年1月31日号,4頁
日本経済新聞(2007)「宮崎、イオン、橘百貨店を売却、ファンド主導で本業回帰。」,『日本経済新聞』2007年9月29日号 地方経済面 九州A,13頁
日本経済新聞(2008)「ファンド社長、銃不正改造、銃刀法違反容疑で逮捕」,『日本経済新聞』2008年2月27日号 西部朝刊 社会面,17頁
日本経済新聞(2008)「橘百貨店、地元資本に、社長と2社、HD設立―ファンド保有株取得」,『日本経済新聞』2008年7月16日号 地方経済面 九州A,13頁

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鳴海 行人
matinote仕掛人・ライター・マネージャー(編集長) 90年生まれのまち探訪家。 地域を俯瞰的に見つつ、歴史を掘り下げて現在の姿への系譜を探りながら、まちを観察をしています。地誌・地方都市・総合交通体系・ロードサイド・観光・空間デザインなど様々な視点を駆使し、まちを読み解くことがひとつの楽しみです。