MENU

百貨店やめます!?地場有力百貨店を引き継いだ「ボンベルタ」:第2回-ボンベルタ伊勢甚

 前回、千葉県成田市にある商業施設「ボンベルタ成田」について取り上げました。その中でも触れましたが、「ボンベルタ」の名を冠す商業施設が、かつて茨城県にも存在しました。それが「ボンベルタ伊勢甚」が運営する百貨店です。「ボンベルタ伊勢甚」は水戸の地場百貨店「伊勢甚」が発展的解消する形で誕生した百貨店でしたが、今回は伊勢甚百貨店、そしてボンベルタ伊勢甚を含む、伊勢甚グループが歩んだ特徴ある歴史について、取り上げていきたいと思います。

水戸の御用商人から水戸随一の百貨店へ

 伊勢甚の歴史は現在の水戸市泉町に、初代伊勢屋甚介が1724(享保9)年に、呉服商「伊勢屋」を開いたことにはじまります。その後二代目、三代目と代替わりしていくうちに、次第に商売は成功を収め、三代目伊勢屋甚介は水戸藩の御用商人を務めたと言われています。
 文明開化ののち、明治・大正期も水戸の有力な呉服商として発展を続け、昭和初期には洋館式店舗への改装や女性店員やマネキンの導入を行うなど、呉服店としての形にこだわらない施策を打ち出していきました。
 しかしそんな伊勢甚を太平洋戦争の戦禍が襲い掛かります。空襲によって、蔵を残して建物が全焼してしまったのです。その後も1950年に再び火災に見舞われるなど、終戦後は厳しい時期が続きました。

 そんな中でも伊勢甚は復活への布石を打っていきます。1949年には株式会社伊勢甚を設立し法人化、1950年の火災も、それを契機として建物を新築して克服します。さらに1956年の百貨店法施行に合わせ、売場拡張の上百貨店認可の申請を行い、本格的な百貨店の運営に乗り出します。この時の申請は、地元商業界の反対もあり実現しませんでしたが、1959年には地下1階、地上5階、の店舗にまで成長を遂げました。当時水戸には志満津百貨店(のちの水戸京成百貨店)が存在し、地場百貨店同士の熾烈な売り上げ競争が繰り広げられたと言います。 

 

水戸市初の本格的結婚式場として開業した中央ビルの「ゴールデンホール」。現在は医療施設が集積するビルとなっている(撮影:かぜみな・2017年)

 

 1963年には、スーパーマーケット事業に進出します。「ジンマート」の名前で茨城県下への出店を開始し、最終的に福島、栃木、埼玉、東京にも店舗を持つチェーンにまで成長しています。翌年1964年にはブライダル・文化事業にも進出し1970年代には、百貨店2店舗、スーパーマーケット38店舗、食品専門店5店舗を運営し、売上総額は520億円という、茨城の小売業を牽引する企業グループとして県内では知られるようになります。
 そんな順風満帆に思える状況の中で、突如として持ち上がったのが、ジャスコ(現:イオン)との合併構想だったのです。

「小売」から「不動産」への転換

 そもそものジャスコと伊勢甚のつながりは、合併構想前から存在していました。ジャスコは、1970年にオカダヤ(三重県四日市市)、フタギ(兵庫県姫路市)、シロ(大阪府吹田市)の3スーパーチェーンが共同出資で設立した共同仕入れ会社に端を発するグループですが、実はこのジャスコが設立される時、千葉市に拠点を置くスーパーチェーン「扇屋」と共に、伊勢甚はその提携計画に参加したいという申し入れをオカダヤ側にしていたようです。この時は不調に終わったものの、その後も互いに提携のチャンスをうかがっていたようです。
 その中で、1976年に、伊勢甚は合併の前段階として、ゆるやかな形での業務提携をジャスコと結びます。当時ジャスコは、関西生まれの、新進気鋭で勢いあるスーパーチェーンではありましたが、当時関東への出店はほとんどなく、社内でもなぜ業績が右肩上がりの時にあえて、関西の新興スーパーチェーンに身を売り渡さないといけないのかと、当時の会長をはじめ、社内では大反対の嵐が吹き荒れたといいます。しかし合併を主導した会長の弟でもある当時の社長の「経営状態がいい今のうちに、企業連合に入っておき、チェーンの存続を図りたい」という考えもあり、社内の反対も徐々に少なくなっていったようです。

 1977年の合併を決議する株主総会で、結局反対票を投じたのは会長1人のみで、そのまま合併となりました。具体的には、創業家がトップを務める株式会社伊勢甚本社(1962年に株式会社伊勢甚から社名変更)を伊勢甚系店舗の不動産管理会社として存続、運営会社としてあった伊勢甚百貨店、日立伊勢甚、ジンマート、味の街の4法人がジャスコと合併し、新たに地域法人として、百貨店事業を行う株式会社伊勢甚と、スーパーマーケット事業を行う株式会社伊勢甚チェーンを立ち上げるという形になりました。これは他の地方スーパーチェーンなどと同様の手法でのジャスコグループ入りなのですが、伊勢甚だけは「ジャスコ」の名前が新法人名に入らない形となりました。これは伊勢甚内で根強い反対運動があったことを配慮したとされています。
 これで本来の伊勢屋の系譜を継ぐ株式会社伊勢甚本社は不動産管理に専念することとなり、実質的に小売業からの撤退ということになりました。その後は、不動産を柱にホテル事業、ブライダル事業に注力し、ブライダル事業では現在県内6か所の結婚式場を運営しています。

 

現在の主力はブライダル事業で、県内でも知られるブライダルチェーンに成長した(写真はひたちなか市のアジュールひたちなかウェディングヴィラ)(撮影:かぜみな・2017年

 

「伊勢甚ジャスコ」の終焉

 一方、ジャスコグループ入りを果たした小売部門の伊勢甚百貨店、伊勢甚チェーンですが、その後も店舗出店を続けていきます。特に顕著だったのは伊勢甚チェーン側で、ジャスコとしてもともと営業していた3店舗の運営を引き受けたほか、茨城・栃木県内に店舗を次々と開設していきます。伊勢甚百貨店も1983年に勝田に新規出店、1985年には日立の再開発計画に参画して新店舗を開設しました。
 その中で、前回でも取り上げたようにジャスコグループの百貨店施策の一環で、ブランドを統一することになり、1989年に店舗ブランドを伊勢甚百貨店から「ボンベルタ伊勢甚」に変更、同時に社名も「伊勢甚」から「ボンベルタ伊勢甚」へと変更します。ちなみにボンベルタとは「良い」をあらわすBon(フランス語)、「美しい」をあらわすBelta(イタリア語)の造語なのだそうです。

 一方の伊勢甚チェーン(スーパーマーケット)も次第にジャスコ色の強いものとなっていきます。1986年の那珂町店出店(現在のイオン那珂町店)から、店舗名称を「伊勢甚チェーン」から「伊勢甚ジャスコ」に変更。翌年には会社名も「伊勢甚ジャスコ」へと変更し、既存の店舗もすべて「伊勢甚ジャスコ」へと変更されました。
 しかし、バブル経済の崩壊によって、伊勢甚ジャスコの業績に陰りが見え始めるようになります。伊勢甚ジャスコは、ジャスコとの合併以降、新規出店は続けていましたが、古い既存店の整理などは行っておらず、ジンマート時代に大量出店した小型店の収益が経営の足かせとなりつつありました。そのため1992年より、小型店を中心とした店舗リストラを行うようになります。

 

伊勢甚ジャスコが開業したSCの例(イオン鹿嶋店・ショッピングセンターチェリオ)(撮影:かぜみな・2017年)

 

 そして1994年に株式会社伊勢甚ジャスコは、業績不振を理由にジャスコへと吸収されることになります。総合スーパーの大型店はそのまま「ジャスコ」へ、食品スーパー等の小型店はジャスコ子会社で食品スーパーを展開する「茨城ウエルマート」へ営業権が譲渡され、同年、伊勢甚ジャスコは会社清算され、法人が消滅しました。店名も「ジャスコ」「ウエルマート」へと変更となり、スーパーチェーンとしての「伊勢甚」はここで消滅しました。

「ボンベルタ伊勢甚」のその後

 「ボンベルタ伊勢甚」の名前を掲げた伊勢甚百貨店でしたが、こちらもバブル崩壊の影響を受け、次第に苦戦していくようになります。1994年、上記の伊勢甚ジャスコ消滅のタイミングに合わせて、店舗面積が狭く、百貨店として十分に営業できないとして、ボンベルタ伊勢甚勝田店を閉鎖、営業権をジャスコに委譲します。この店舗は、同年ジャスコ勝田店として同年、再開業します(2010年閉店)。
 残ったボンベルタ伊勢甚は水戸店と日立店の2店舗となりましたが、比較的好調な日立店に比べ、創業地である水戸店は水戸京成百貨店の攻勢や、中心市街地の衰退もあり、運営に苦戦するようになります。そんな中、建物の老朽化、賃貸契約、敷地内を含む再開発計画といった課題もあり、水戸店を取り巻く環境はかなり厳しいものとなってきました。
 再開発事業では商業ビルを建設することになっており、核テナントとしては当然、地区内に店舗を構えていたボンベルタ伊勢甚が有力視されていました。しかし当のボンベルタ伊勢甚は採算性を理由に入居を辞退したのです。最終的に水戸店の向かいで営業していた水戸京成百貨店が移転することとなり、ボンベルタ伊勢甚水戸店は2003年に営業を終了。跡地は解体され、2006年に再開発ビル、そして水戸京成百貨店が新築オープンしました。

 

現在の水戸京成百貨店。この建物が完成する前、当地にボンベルタ伊勢甚水戸店が存在した(撮影:かぜみな・2017年)

 

 この頃になると、親会社でのあるイオングループも地方の百貨店事業は整理対象として認識していたようで、残った日立店の閉店も時間の問題でした。水戸店閉店の翌年、2004年に日立店の閉店が発表され、、2005年にボンベルタ伊勢甚日立店が閉店しました。これにより長きにわたって茨城に君臨した百貨店「伊勢甚」が消滅しました。

「ボンベルタ」から見えた、とある200年企業の力

 小売業としての「伊勢甚」は、現存する一部のイオン店舗を除けば基本的に残存していません。しかし不動産事業を引き受けた「伊勢甚本社」は現在でも存続しており、さらにブライダル事業などに手を広げ、堅実に業績をあげています。
 これがもし仮に、小売業を抱えたままであったらどうなっていたでしょうか。歴史にもしもは禁物ですが、小売業が伊勢甚ジャスコやボンベルタ伊勢甚がたどったような末路をたどったなら、伊勢甚本社は存続していなかったかもしれません。

 1977年に小売事業をジャスコへと受け渡した、その経営判断は非常に賢明で、かつ未来を的確にとらえたものであったように思います。「企業の一番いい時に結婚(合併)させるのは、かわいい盛りの娘を嫁に出すのと同じです。そこまで読んでやるのが経営者の務めだと思う。今現在、経営上の不安はない。しかし3年先、5年先を考えたとき同族経営の地方スーパーには必ず限界が来る」というのは当時の社長の言葉ですが、企業を人として見立てる温かさと同時に、冷静に状況を見極める力を兼ね備えた、経営者としての一つのあるべき姿がここにあるように思います。
 そうした判断を可能にしたのは、「情や未練にとらわれない柔軟さ」であったように思います。普通であれば、祖業ですらあった小売業を手放すなんて、並の経営者では決断できないはずです。そうした決断を下すことができる、それが「伊勢甚」のイズムであり、強さなのかもしれません。
 中々に真似のできることではありませんが、企業の存続を第一に考えたとき、「拘らない」「歴史にとらわれない」「どんなことでも決断する」ということが重要になっていくのかもしれません。

参考文献

伊勢甚本社HP:https://www.isejin.co.jp/(2017年10月8日最終閲覧)
水戸市史編さん近現代専門部会(1998)「水戸市史」下巻3
実業往来社(1977)「ジャスコとの合併目前に揺れる伊勢甚百貨店―合併は決ったが一然と内紛続く」『実業往来』307,p.20.
杉岡碽夫(1977)「スーパーの軍門に下る地方百貨店、伊勢甚・ジャスコの合併。」『朝日ジャーナル』19(31)(965),p.100-103..
日本経済新聞朝刊「ジャスコ、秋にも伊勢甚グループを吸収、2新会社に再編。」1977/03/16付
日経流通新聞「伊勢甚グループ4社、、ジャスコとの合併を総会で議決――綿引会長ひとりが反対表明。」1977/05/19付
日本経済新聞地方経済面北関東「茨城県日立市神峰町1丁目の市街地再開発、、核店舗に伊勢甚内定。」1977/08/23付
日経産業新聞「伊勢甚本社、水戸に市内最大のホテル着工――58年10月開業。」1982/08/11付
日本経済新聞地方経済面北関東「伊勢甚、23日に勝田店をオープン。」1983/02/18付
日本経済新聞地方経済面北関東「変わるか日立の商業――神峰SC6月開業、流出の歯止め期待(水曜リポート)」1985/03/27付
日本経済新聞地方経済面北関東「きょう、伊勢甚日立店オープン――旧店舗も営業継続。」1985/06/05付
日本経済新聞地方経済面北関東「北茨城市の大型店出店問題、12月上旬から調整開始、計画5店を一括審議。」1985/08/31付
日経流通新聞「下館駅前再開発、核店舗候補に三社――東急ストア・長崎屋・伊勢甚。」1986/01/16付
日経流通新聞「黒磯市商調協、ヨーカ堂出店・伊勢甚増床――申請面積削り認可。」1986/03/13付
日本経済新聞地方経済面北関東「伊勢甚チェーン、茨城にコンビニ型店展開――売場500平方メートル未満。」1986/05/17付
日本経済新聞地方経済面北関東「水戸市の大型店、改装相次ぐ、ダイエー・伊勢甚・丸井…――好調なエクセルに対抗。」1986/09/19付
日本経済新聞地方経済面北関東「茨城県那珂町、、「伊勢甚ジャスコ」大駐車場備え開店へ。」1986/10/12付
日本経済新聞地方経済面北関東「伊勢甚旧日立店、新店と両立ならず――衣替え後16カ月で閉店(水曜リポート)」1987/03/11付
日本経済新聞地方経済面北関東「伊勢甚、閉店中の旧日立店立体駐車場に活用。」1987/05/12付
日本経済新聞地方経済面北関東「水戸市内の流通戦争激化――駅前に水戸西武開店へ。中心では増床計画相次ぐ。」1988/03/29付
日本経済新聞地方経済面北関東「伊勢甚、、勝田店増床オープン――市内最大の店舗面積日経流通新聞「ジャスコグループ、伊勢甚など3社の百貨店――名称統一し強化。」1988/12/27付
日本経済新聞地方経済面北関東「ボンベルタ伊勢甚に――伊勢甚、2月に社名変更。」1988/12/27付
日本経済新聞地方経済面北関東「伊勢甚が社名変更、ボンベルタ伊勢甚に。」1989/20/22付
日本経済新聞地方経済面北関東「ボンベルタ伊勢甚、いわき市への出店断念――店舗面積削減を嫌う。」1990/03/02付
日本経済新聞地方経済面北関東「伊勢甚ジャスコ、常陸那珂地区に進出、「ハイマート2000構想」を先取り。」1990/05/24付
日本経済新聞地方経済面北関東「ボンベルタ伊勢甚きょう新装開店。」1992/05/15付
日経流通新聞「国道地下・200台駐車場、水戸・泉町へ――商議所・2百貨店が要請。」1992/08/25付
日本経済新聞地方経済面北関東「伊勢甚ジャスコ、『不採算』4店舗を93年春まで閉鎖――売り場小さく苦戦。」1992/09/08付
日経流通新聞「伊勢甚ジャスコ、北茨城店、、26日開店――団塊の世代対象に。」1992/11/19付
日本経済新聞地方経済面北関東「伊勢甚ジャスコが新型スーパー特異な商品だけ安く――郊外型、来年に1号店。」1993/03/11付
日本経済新聞地方経済面北関東「伊勢甚ジャスコ、茨城・下妻にSC建設、県内最大級――95年10月オープン。」1993/04/10付
日本経済新聞地方経済面北関東「茨城・那珂町に来年5月開業、伊勢甚が結婚式場――団塊ジュニアに的。」1993/06/19付
日本経済新聞地方経済面北関東「日立にも新ホテル、伊勢甚本社が開業――OAルームも設置。」1993\/11/05付
日経流通新聞「ジャスコ、、茨城で子会社の店再編――伊勢甚からGMS、食品店、ウエルマートに。」1994/02/10付
日本経済新聞地方経済面北関東「伊勢甚ジャスコなど、茨城・鹿島に大型SC26日にオープン。」1994/05/24付
日本経済新聞地方経済面北関東「ジャスコグループ伊勢甚ジャスコ廃止――大型店舗、、ジャスコに転換。」1994/06/21付
日本経済新聞地方経済面北関東「ジャスコ勝田店、23日に開店――百貨店、スーパーに衣替え。」1994/09/06付
日本経済新聞朝刊「ジャスコが子会社2社清算。」1994/12/10付
日本経済新聞地方経済面茨城「ジャスコ、超大型SC建設、水戸・ひたちなか郊外――出店、3年内メド。」1996/01/23付
日本経済新聞地方経済面茨城「ボンベルタ伊勢甚、水戸店存続の方針、8月にも賃貸契約更新。」1996/05/28付
日本経済新聞地方経済面茨城「ボンベルタ伊勢甚、水戸店の契約3年延長――攻勢へ売場大幅改装。」1996/09/12付
日本経済新聞地方経済面茨城「水戸市の泉町1丁目南地区、再開発準備組合が設立。」1996/12/04付
日本経済新聞地方経済面茨城「水戸・泉町地下駐車場きょう開業、中心街活性化へ地元の期待高く。」1997/12/10付
日経流通新聞「水戸市・泉町1丁目南地区、、8階建て再開発ビル――キーテナント焦点。」1998/08/20付
日本経済新聞地方経済面茨城「水戸の結婚式場閉鎖、伊勢甚本社。複数診療所集め総合医療施設に、来春開業。」1999/01/15付
日本経済新聞地方経済面茨城「市街地再開発が始動、京成百貨店、移転・出店。ボンベルタ伊勢甚、閉鎖。」2000/04/12付
日本経済新聞地方経済面茨城「水戸・泉町一丁目の再開発が始動。水戸京成百が移転・増床」2002/03/15付
日本経済新聞地方経済面茨城「ボンベルタ伊勢甚、水戸店2月20日閉店。」2002/12/05付
日本経済新聞地方経済面茨城「伊勢甚水戸店、最後の週末、セールに約3万人来店。」2003/02/18付
日本経済新聞地方経済面茨城「伊勢甚水戸店が閉店。」2003/02/21付
日本経済新聞地方経済面茨城「伊勢甚日立店を閉店、社長、、きょうにも社員説明。」2004/08/20付
日本経済新聞地方経済面茨城「ボンベルタ伊勢甚日立店、閉店、来春にも。百貨店式の小売り誘致へ。」2004/08/21付
日本経済新聞地方経済面茨城「伊勢甚日立閉店、社長、時期明言せず。」2004/08/27付
日本経済新聞地方経済面茨城「伊勢甚日立店が38年の歴史に幕、閉店セールに40万人。」2005/05/21付
日本経済新聞地方経済面茨城「ジャスコ勝田店、2月閉店、茨城県ひたちなか市など、イオンに存続を要望。」2009/11/12付
日本経済新聞朝刊「事業撤退、時代読み果敢に、伊勢甚、百貨店を手放す。(200年企業――成長と持続の条件)」2010/03/24付

The following two tabs change content below.

渦森 うずめ

都市という現実の中に漏れ出す夢や理想を商業空間に見出して遊んでいます。逆にコンテンツという夢や理想から現実を救い上げるのもすき。つまりは理想と現実を渡り歩く放浪者(?)。消えそうなファーストフードチェーン「サンテオレ」を勝手に応援中。