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【商業】総合スーパーが手掛ける百貨店!?「ボンベルタ」:第1回-ボンベルタ成田

 成田国際空港でその名を知られる千葉県成田市。その玄関口であるJR成田駅の西側には、千葉県企業庁が造成したニュータウン「成田ニュータウン」が広がっています。そんな成田ニュータウンのほぼ中央部、JR成田駅西口から2km弱の所に、商業施設「ボンベルタ成田」はあります。
 「ボンベルタ」という名前は、あまり聞きなれないと思いますが、実はイオングループの商業施設です。もともとはグループの百貨店ブランドとして誕生した店舗ブランドで、かつては最大6店舗まで展開していました。現在イオングループで営業しているボンベルタは成田1店舗のみとなっています。
 そんな「知られざる」百貨店、ボンベルタについて、今回から3回にわたって取り上げたいと思います。第1回目として今回は現在も営業を続ける「ボンベルタ成田」を取り上げたいと思います。

ボンベルタと競合商業施設の位置関係  (OpenStreetMapを元に作成) © OpenStreetMap contributors

総合スーパーによる百貨店運営の歴史

 そもそも、どうして総合スーパーが百貨店事業を行うようになったのでしょうか。
 通説としては、1980年代に従来の総合スーパー事業が頭打ちとなり、多様化、高級化する消費者のニーズに合わせて従来の量販店としての総合スーパーとは一線を画す店舗ブランドが必要になったためとされています。また地方では、全国で画一的な展開を行っていた総合スーパーよりも、より地域密着の姿勢が期待できるとして百貨店の出店を望む声が多かったという理由もあったようです。

 こういった流れの先鞭をつけたスーパーとして「西友」が挙げられます。西友は同じ西武流通グループの西武百貨店の意匠やノウハウを活用し、1976年の富山西武店から西友が運営する「西武百貨店」の運営を開始しました。以降地方を中心に全国展開を進めていきます。
 西友は自グループの中に百貨店を持っていたため、比較的容易に百貨店事業へと進出することができましたが、百貨店はお店の名前(のれん)が重視される店舗形態であるため、グループ内に百貨店を持たない総合スーパーにとっては、一から百貨店を興すことには大きなリスクが伴いました。そのため多くの総合スーパーは海外の百貨店ブランドの名前を借りる形で百貨店事業へと参入していきました。

2016年に閉店した「プランタン銀座」も、もともとはダイエーが開業した百貨店。2000年代にグループから離脱している(撮影:かぜみな・2014年)

 当時業界最大手であったダイエーは1980年にフランスの名門百貨店「プランタン」と提携し、同年に合弁会社「オ・プランタン・ジャポン」を設立。1981年に兵庫県神戸市の三ノ宮駅前に「プランタン三宮」を開業させて以降、順次出店を進めていきました。
 イトーヨーカ堂も、北海道札幌市にあった「札幌松坂屋」の経営再建を手掛けたことを契機に、1984年にアメリカの百貨店「J.W.ロビンソン」と提携して「株式会社ロビンソン・ジャパン」を設立して百貨店事業へと本格的に参入していきます。
 こうした流れの中で、ジャスコも百貨店事業に乗り出していくことになります。

ジャスコによる百貨店運営

 そもそもジャスコは1970年代より、地方百貨店の経営支援によるグループの拡大を図っていました。1975年には宮崎市にある橘百貨店の経営支援に参画、のちにグループ入りを果たします。1976年には茨城県下一の流通グループであり、水戸の地場百貨店「伊勢甚百貨店」を運営していた伊勢甚グループと資本提携、こちらも翌年には合併によるジャスコグループ入りを果たします。しかし、いずれも総合スーパーのジャスコに転換したり、あるいはそのままの商号で営業を続けたりと、統一したブランドで一体的に百貨店を運営するといったことはありませんでした。

ボンベルタの1号店があった「アリコベール上尾」。現在は丸広百貨店上尾店となっている(撮影:鳴海行人・2017年)

 そんなジャスコグループも1980年代に入って本格的な百貨店運営を始めます。きっかけは埼玉県上尾市にジュニアデパート「ボンベルタ上尾」を開業させたことでした。
開業の経緯などは以前の記事で取り上げていますが、地元の要望や時代の流れに合わせて生まれたものでした。この「ボンベルタ上尾」を皮切りに、ジャスコグループも百貨店事業に本格的に参入していくことになります。ボンベルタのブランドはこの時に誕生したものなのです。
 その後、1988年に、先述した伊勢甚が運営する百貨店3店舗(水戸店、勝田店、日立店)とボンベルタ上尾、橘百貨店の計5店舗を、グループの百貨店「ボンベルタ」として店名を統一することとなりました。そして、上尾に次ぐ第二の完全新規出店として計画されたのが成田市の「ボンベルタ成田」だったのです。

実験店としての「ボンベルタ成田」

 ボンベルタが新規出店の地として選んだ成田市は、1978年に新東京国際空港(現在の成田国際空港)の開港し、今後の成長が期待できる都市として、大規模商業施設の進出が相次いでいました。具体的には1980年にダイエー成田店が、1981年には扇屋ジャスコ成田店が相次いで開業しています。その結果、地元商業者が深刻な影響を受けたとして、市商工会などの団体が1982年より1986年までの大規模商業施設の新規出店凍結を宣言し、成田市議会でもその宣言を受けて出店凍結を決議していました。
 しかし、この頃市西部で造成が進められていた成田ニュータウンでは核となる赤坂地区の商業施設の建設が計画されていました。核テナントとして十字屋の入居が内定するところまで話が進んでいました。成田ニュータウンの住民を中心に、ニュータウン内への大型店出店の許可を求める請願を提出していました。
 しかし開業まであまりにも時間がかかったためか、十字屋が事業から撤退、跡地を引き継いだのがジャスコ(イオングループ)でした。1988年ごろには千葉県内のジャスコを運営していた「扇屋ジャスコ」が出店する計画になっていましたが、次第に単なる総合スーパーではなく、百貨店としての出店が目指されるようになりました。背景には1983年に開業した「ボンベルタ上尾」が思ったような収益をあげられておらず、上尾のような駅前立地ではない郊外立地の百貨店への模索があったようです。最終的にジャスコ7割、扇屋ジャスコ3割が出資する形で新会社ボンベルタを設立、「ボンベルタNARITA」として百貨店を開業させることを1990年に決定しました。

ボンベルタ成田。派手な装飾こそ少ないものの、やはり普通のイオンとは違う佇まい(撮影:かぜみな・2017年)


 特徴的であったのは、百貨店として強みを生かせるところは直営で、それ以外は基本的にテナントを入居させるという店づくりの方針でした。最たるものは食品売り場で、当時はダイエーグループにいた食品スーパー「マルエツ」が出店することになり、ボンベルタ側ではギフトなどをはじめとする物産、銘店のみを扱うことになりました。また上層階も直営売り場ではファッションに絞り、家具家電を取り扱わないほか、グループが傘下にいれたり、提携関係にある高級専門店をインショップ形式で揃えて出店させたりするなど、のちのイオンモールの先駆けとも言えるような取り組みも行われました。
 同年には成田店の開業を前に、既存のボンベルタ5店舗で共同仕入れをはじめ、催事・PR活動、商品開発などで共同歩調路線をとります。最終的には各地域運営会社の統合を視野に入れるなど、チェーン運営体制への本格的な移行をこのころから模索しだすようになります。

 そういった流れのなかで、「ボンベルタ成田」は1992年3月、、ついに開業の日を迎えます。イオングループとしては、ボンベルタ成田を実験店として捉え、成田を足掛かりとしてさらなる店舗展開を考えていたといいます。しかし僅か2か月後の1992年5月、「ボンベルタ上尾」が撤退を表明。イオングループによる「ボンベルタ」戦略は黄色信号が灯ることになります。
 「ボンベルタ成田」も、開業以降売り上げこそ伸ばしていましたが、バブル景気の崩壊もあって、当初の予測とは程遠い売り上げであったようです。バブル崩壊以降、イオングループの中での「ボンベルタ」の立ち位置があいまいになっていく中、「百貨店らしさ」を追求し、価格競争からは一線を画しながらも、厳しい運営のかじ取りが続きました。
 そういった中でも周辺の商業施設の競合は激化していきます。1998年には、周辺に同グループのイオン成田ショッピングセンター(現在のイオンモール成田)やユアエルム成田(イトーヨーカドー成田店)などの進出計画が相次いで明らかになったことから、ボンベルタも大規模増床に踏みきります。別棟を建設し、従来扱いの無かった家具・家電の専門店を入れ、従来の店舗部分も大幅にテナントを入れ替えて、若者向けのテナントを強化した形で1999年にリニューアルオープンしました。

百貨店「ボンベルタ」のいま

 現在のボンベルタ成田を訪れてみると、非常に不思議な力加減の商業施設になっていることが分かります。時代の要請に合わせてか、いわゆる高級感といったものは良い意味で薄れ、高級な総合スーパーといったような雰囲気になっています。それでも衣料品を中心に、百貨店のようなテナントが集まっているフロアもあり、依然「百貨店らしさ」というものは維持されているように思います。
 1999年に増床された部分は、現在アネックス館となっています。開業当初核テナントとして入った石丸電気やイオン系の家具テナントはいずれも撤退し、現在は行政、サービス施設を中心に、100円ショップやスポーツジムが入居する形となっています。

1999年に増築された「アネックス館」。現在はサービス施設等が主体(撮影:かぜみな・2017年)

 一見すると、百貨店の重厚感や高級感といったものは失われてしまったように思いますが、現在まで数々の周辺の大規模商業施設との競争に生き残ってきたことを考えれば、地域のニーズに合わせて柔軟に店の力加減を変化させてきた結果ともいえそうです。
 ボンベルタ上尾は、ジャスコ側が目指したい高級路線と、地域のニーズが乖離していたことが撤退の一因になったとされています。その失敗への反省もあったのか、いい意味で「百貨店らしさ」を捨て、「百貨店らしさ」で必要とされる部分だけを残すという思い切った方針転換が、現在のボンベルタを残したのではないでしょうか。

完全な郊外立地を心配する声も開業当初はあったが、成田ニュータウン、公津の杜方面へ巡回バスを運行してクルマを利用しない層もカバーしている(撮影:かぜみな・2017年)

 ボンベルタ上尾が撤退、ボンベルタ成田は百貨店からの脱却を少しずつ図り現存する中、旧伊勢甚百貨店であった茨城県内3店舗、そして宮崎の橘百貨店は、いったいどんな経緯をたどっていったのでしょうか。次回は旧伊勢甚百貨店であった3店舗を取り上げていきたいと思います。

参考文献

ボンベルタHP:http://www.bonbelta.co.jp/(2017年10月3日最終閲覧)
伊勢甚本社HP:https://www.isejin.co.jp/(2017年10月3日最終閲覧)
鈴木哲男(1992)「最新SCテナントウォッチング。ボンベルタ(成田市)―家族で行きやすく、買いやすい、人間にやさしい店づくり―」『商業界特大号』45(6)(550),p.23-26.
販売革新編集部(1992)「新たな需要創造に挑むニュー・ストアズ。ボンベルタ成田店。ポスト都市型百貨店を目指す、郊外方カジュアルデパートの実力診断」『販売革新』30(5)(370),p.82-86.
日経流通新聞「ダイエーと扇屋ジャスコ、成田空港周辺へ続々と進出――成田市、商調協で調整へ。」1977/03/14付
日本経済新聞地方経済面首都圏「大型店凍結宣言の成田市議会、61年度以降は出店認める――消費者の請願を採択。」1983/10/08付

日経流通新聞「百貨店を積極出店――ダイエーなど大手スーパーグループ相乗効果狙い調整進む。」1988/12/08付
日経流通新聞「ジャスコグループ、伊勢甚など3社の百貨店――名称統一し強化。」1988/12/27付
日本経済新聞地方経済面東京「扇屋ジャスコ核にSC、成田ニュータウンに――千葉県都市公社。」1989/12/05付
日経流通新聞「成田に郊外型百貨店、ニュータウンの各天日に、、イオングループ。」1990/08/11付
日経流通新聞「イオングループ、、百貨店事業で仕入れ一本化――自主MD強化、成田にモデル店舗。」1990/09/01付
日本経済新聞地方経済面首都圏「成田NT初の大型店3月開店、百貨店はジャスコ、マルエツが生鮮品。」1992/01/29付

日経流通新聞「ボンベルタ上尾(埼玉)撤退――売り上げ伸びず、、同業態展開駅から郊外へ。」1992/05/21付
日経流通新聞「不連続線。イオングループ、ボンベルタ孤立深める」1995/01/31付
日本経済新聞地方経済面千葉「成田のボンベルタ百貨店、大規模増床、3万3700平方メートルに。」1998/07/24付

日本経済新聞地方経済面「京成都市開発。公津の杜に大型SC。ヨーカ堂核に80店。」1998/09/17付
日本経済新聞地方経済面「成田市、流通激戦区へ。イオンSC着工、来年開業。」1999/05/13付
日本経済新聞地方経済面「百貨店「ボンベルタ」が新館。成田、流通激戦地に。市内店舗面積2倍強に」1999/10/07付

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渦森 うずめ

都市という現実の中に漏れ出す夢や理想を商業空間に見出して遊んでいます。逆にコンテンツという夢や理想から現実を救い上げるのもすき。つまりは理想と現実を渡り歩く放浪者(?)。消えそうなファーストフードチェーン「サンテオレ」を勝手に応援中。