もう暦の上では秋になり、暑さもそろそろ和らごうかという時期になってきました。夏休みはリゾートに出かけた方も多いのではないでしょうか。
やはり日本でリゾートとして名高いのは「沖縄」です。1975年の沖縄海洋博以来、繰り返しPRされてきた「沖縄=リゾート」というイメージは多くの人に根付いているようです。
その沖縄で観光の玄関口となるのは沖縄県の県都・那覇です。中でも目抜き通りの「国際通り」は沖縄の戦災復興・経済成長の象徴として「奇跡の1マイル」とも呼ばれ、今日も多くの観光客が訪れています。
一方で、国際通りは戦災復興・経済成長の象徴としてだけではなく、これまでの那覇のまちに関わる様々な事柄の起点にもなります。そこで、今回から3回にわたって、「国際通り」から見える様々なまちの表情をみていきたいと思います。
国際通りの起点へ
那覇空港からモノレール「ゆいレール」に12分ほど乗ると「県庁前」駅に到着します。ここが那覇の中心と言ってもよい駅で、周辺には沖縄県庁や那覇市役所といった行政の中心、久茂地交差点という交通の要衝、そして百貨店の「リウボウ」や国際通りといった商業の中心があります。
県庁前駅から西へ歩くとすぐに「県庁北口」交差点があります。周囲を見渡すと立派な沖縄県庁、現在沖縄で唯一の百貨店「リウボウ」が入居する「パレットくもじ」、そして国際通りの入口があり、人・クルマ・バスの往来が非常に盛んです。
国際通りへ歩みを進めると、2車線の車道に多くのクルマやバスが行き交っては渋滞し、決して広くはない歩道に多くの人が歩いています。とても活気のある光景です。
一方で、この通りを歩くと、不思議なことに気がつきます。県庁からまっすぐ北東に延び、安里川を渡ってすぐにぷっつりと切れるのです。また、割合平坦な那覇市街としては珍しくアップダウンもあります。その上周辺にビジネス街もなく、あまり商店街が発達するような場所に思えないのです。
しかし、かつて国際通りには百貨店が3つもあり、現在も公設市場といった庶民が買い物をする場所があります。間違いなく商業の中心地だったのです。そこで、いかにして今日のような国際通りになったのか、そのルーツを道の開通由来から見ていきたいと思います。
国際通りはかつて「新県道」と呼ばれていた
国際通りの開通は太平洋戦争前の1934年にさかのぼります。このころ、国際通り周辺は「那覇市」・「首里市」・「真和志村」と3つの自治体に分かれていました。(注1)
そして、国際通りの開通には那覇と首里の関係性が大きく関わってきます。
琉球王国時代は那覇が港町、首里が政治のまち、その間の農村地域が真和志となっていました。
1879年の琉球処分(廃藩置県)によって首里城を中心としていた琉球王国が消滅し、明治新政府から派遣された本州出身の官吏によって統治されるようになります。こうして沖縄県が生まれると、県庁は那覇市内に設けられます。当初は首里に設けられる案もありましたが、利用予定の建物が新統治機構に合わないことから那覇に設けられることになったようです。はじめは那覇市街に設けられていましたが、1920年になると現在の場所に県庁が移転しました。
すると、県庁の周辺に人がまとまって住むようになり、さらに首里と県庁の間に人やモノの流れが生じることになります。しかし、首里から県庁へは今の泊港にある泊高橋まで大きく迂回するか、琉球王国初期に作られた狭隘な道を通って美栄橋・崇元寺橋を経由して向かわなくてはなりませんでした。
そのため、沖縄県は新しい道路を建設することにします。この道は沖縄県庁の前から首里へ向かう道中の安里まで直線的に結ぶもので、「新県道」あるいは「牧志大通り」とよばれました。これが現在の国際通りの原型となっています。
(注1):琉球処分から1921年の一般市政開始まで、沖縄では特別県政・特別市政が敷かれていました。そのため、那覇市は那覇區、首里市は首里區となっていました。
明治から太平洋戦争前までの那覇のまち
さて、国際通りの原型となる「新県道」の開通について触れましたが、当時の那覇や首里はどんなまちだったのでしょうか。
まずは那覇を見ていくと、那覇港を中心に栄える港町でした。那覇港は琉球王国が成立した中世に整備され、主に清王朝との外交のために用いられる港でした。また、八重山諸島や久米島といった近場の島々との交易には泊港が用いられ、こうした港のすみわけは現在に至るまで受け継がれています。
那覇港は明治期から大正期にかけて近代的な港にすべく改築が行われ、1915年に事業が完了します。これにより大きな汽船が港内に横づけできるようになり、軽便鉄道の引込線を敷設することで陸海交通機関の接続もできるようになりました。
さて、港町だった那覇は琉球処分以降には政治の中心ともなり、大きく姿を変えます。まず、西南戦争で郷里を追われた鹿児島の商人が那覇に移り住みます。彼らは現在の東町や西に店を構えました。1890年ごろには那覇の経済の中枢を担う寄留商人団としてコミュニティが形成され、首里の旧支配層としばしば対立するようになりました。
市場は明治期から東町の旧那覇市役所(当時は區役所)周辺に展開していましたが、1918年に有蓋の公設東町市場が置かれると、そちらが市民の台所となっていきました。
文化的な要素に目を移すと、1910年代から20年代にかけて東町にいくつか劇場ができ、風俗街は辻遊郭として現在の辻地区にありました。
こうして明治・大正期に大きく発展を遂げた那覇は市域が狭く、北は泊港、東は久茂地川、南は那覇港を囲むエリアと狭いまちでした。首里からの人口移転もあり、市街地に人口を抱えきれなくなり、やがて那覇市の外へと市街地が広がっていきました。
かつての王府・首里と那覇の郊外となった農村地帯・真和志
一方の首里はかつての政治・文化の中心でしたが、琉球処分以降は大きく衰退していくことになります。王族の尚氏は東京への居住を命じられましたが、かつての士族は首里に居住し続けました。新政府への移行を快く思わない人々も多く、また古い慣習が残っていたことも首里衰退の要因と言われています。それでも、都市としてかろうじて独立を保っており、1906年には県庁を首里に移転させようという運動も起きています。
また、尚氏一族をはじめとする旧支配層は財政力を生かして那覇で商業を展開します。その中で「ヤマト」からやってきた寄留商人と対立し、新聞(注2)で非難合戦を行ったり、銀行をそれぞれ設立したりと対立が起きていました。
さて、首里と那覇の間にある地域はどのようなまちだったのでしょうか。
先に触れた通り、那覇のまちでも首里のまちでもない地域は「真和志村」とされていました。真和志という地名は現在も真和志支所・真和志小学校という名前で残ってはいますが、かつてこの場所に独立した自治体があったことはあまり知られていません。
昭和初期までの真和志は現在の那覇市真和志地区とは異なり、漫湖より北かつ那覇と首里に挟まれた都市化されていない地域をすべて真和志村と呼んでいたと考えていただければわかりやすいと思います。
琉球処分(1879年)当時はのちに「新県道」が通る場所はほぼ真和志村内でした。当時は都市の外にあるなにもない地域であり、原野が広がっていました。
その後1903年と1914年に境界変更が行われ、のちに「新県道」沿いとなる牧志町と壺屋が那覇に移管されました。それでも「新県道」の開通当時、真和志村内を通るところは決して短くない区間でした。つまり、「新県道」の後の姿である国際通りはもともと那覇ではない地域であり、開通当時も那覇の端にあったということになるわけです。それでも真和志村は那覇の発展の恩恵をうけ、明治期から昭和初期にかけて人口は2千人から1万8千人まで大きく伸びることとなります。
(注2):旧支配層によって1893年に「琉球新報」(現在も同じ社名で残る)が創刊し、1905年には寄留商人によって「沖縄新聞」(のちに廃刊)が創刊されました。
那覇・首里市街の崩壊
那覇港を中心に発展していた近代那覇市街が崩壊したのは、太平洋戦争末期の沖縄戦によるものでした。1944年10月10日の「十・十」空襲によりほぼすべての建物が焼き尽くされ、多くの住民は沖縄本島各地への疎開を余儀なくされます。また、軍司令部が首里を拠点とし、激闘を繰り広げたために首里市街も灰塵と化し、さらには南部への転戦によって10万人もの住民を巻き込み最も凄惨な戦いが行われます。
沖縄戦終結後は各地に疎開していた住民が収容所で暮らし、那覇・首里・真和志の一帯は米軍により占領されて立ち入り禁止となってしまいました。
この近代那覇市街の崩壊が、現代の那覇市街の構造成立に大きくかかわり、そして今日の国際通りを産むきっかけとなっていったのです。
次回は太平洋戦争終結後の那覇復興と国際通りの変化を追っていきたいと思います。
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参考文献
那覇市企画部市史編集室(1967)「那覇市史 資料篇 第2巻下」 那覇市.
那覇市企画部市史編集室(1974)「那覇市史 通史篇 第2巻 (近代史)」 那覇市.
那覇市企画部市史編集室(1979)「那覇市史 資料編 第2巻 中の7 (那覇の民俗)」 那覇市.
那覇市企画部市史編集室(1980)「那覇百年のあゆみ : 激動の記録・琉球処分から交通方法変更まで」 那覇市企画部市史編集室.
内間安春(1975)「那覇港の今昔」,『港湾』52-5,40-46頁
伊從勉(2013)「市村合併という〈都市計画〉 : 首里・那覇の近代自治と官製都市計画の遅延」,『人文學報』104,37-63頁
那覇市HP:http://www.city.naha.okinawa.jp/ (2017年8月24日確認)
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