【まちづくり】アメリカ軍接収地に新しくまちを作った「那覇新都心」―那覇の未来へむけたまちづくり:第1回

 沖縄県の県庁所在地、那覇市。観光地として知られる市ですが、その一方で30万人の人口を抱える地方都市としての側面も持ち合わせています。
 そして、この都市の近現代における都市史はアメリカ統治時代を挟んでいるがゆえに特異なものといえるでしょう。そんな那覇市が未来へ向けて新しいまちづくりをしていく様子を特集していきます。
 今回は、アメリカ軍住宅跡地に作られた新しいまち「那覇新都心」をとりあげます。

 
那覇新都心と那覇市内の各施設の位置関係図

那覇新都心と那覇市内の各施設の位置関係  (OpenStreetMap・那覇市史を元に作成) © OpenStreetMap contributors

 

那覇市北部にできた新しいまち

 那覇新都心は那覇市北部に位置し、モノレールを利用すると那覇空港駅から20分弱、県庁前駅から10分弱の位置にあります。地域の東側には国道330号線とモノレール、西側には国道58号線が通り、その間は東西を第2環状線をはじめとした大きな道で結ばれています。
 モノレールで「おもろまち」駅を降りれば、駅前には大きな免税店「T・ギャラリア」や商業ビル、ホテルがあり、少し歩くと大きな商業施設「那覇メインプレイス」や新都市公園、沖縄県立博物館があります。周辺には高層マンションも確認することができます。さらに西へ向かえば低層の住宅地が立ち並びます。
 さて、この大きな新都心はどのような経緯で形成されたのでしょうか。

 
おもろまち駅前

おもろまち駅前から「那覇メインプレイス」へ続く通りを見た様子です。ビルやマンションが建てられています (撮影:鳴海行人・2016年)

 
那覇新都心

那覇新都心では広々とした道路が整備されました (撮影:夕霧もや・2016年)

  

アメリカに強制接収された土地

 那覇新都心は那覇市郊外にあり、太平洋戦争までは「真和志村」という自治体に属す農村地帯でした。当時は銘苅(めかり)を中心に天久(あめ)・上之屋・安謝(あじゃ)などの地区から構成されていました。サトウキビ栽培が盛んなところで、のどかな農村だったといいます。それが太平洋戦争末期の沖縄戦で一変します。
 日本軍の拠点が置かれていた首里城に近接していた銘苅周辺では大激戦が行われ、のどかな農村は灰と化してしまいました。
 そして、太平洋戦争後は沖縄をアメリカ軍が占領することになります。那覇周辺はアメリカ軍が立ち入りを禁止しており、銘苅周辺から避難していた住民が帰還するのは1947年のことでした。
 それからしばらくの間は自給自足の生活で地域の復興を地道に進めていきます。
 しかし1950年頃、突然アメリカ軍による再接収が始まりました。このころ、アメリカは沖縄を防衛拠点化すべく、軍施設の建設を進めていたのです。これに対し、住民はカマを持ち出して抵抗運動を試みます。しかし、1953年にアメリカ国民政府から布令第109号「土地収用令」を公布されたことにより、地域の人々はほぼなすすべのないまま、地域を再び追われることになりました。

 
米軍基地の中と外を区切るフェンス

アメリカ軍基地の中と外は現在もこのようにフェンスで区切られ、フェンスの中は広々とした土地利用がされています (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 

土地が返還されても続く地域住民の苦難

 再接収された土地は「牧港住宅地区」と呼ばれ、牧港地区(キャンプ・キンザー、浦添市内)へ通うアメリカ軍人のために住宅が建設されていきました。土地はフェンスで区切られ、フェンスの外に追い出された住民は狭い土地におしこめられ、飲み水の確保に苦労していました。接収された土地には地代が支払われていましたが、わずかなものだったといいます。
 一方でフェンスの中ではコンクリートの広々とした家が立ちならび、芝生に水を撒いていたといいます。格差をまざまざと見せつけられた住民の気持ちはいかばかりだったか想像もつきません。

 
アメリカ軍住宅遠景

現在もあるアメリカ軍住宅(写真下部のコンクリート造りの建築物)です。写真奥の観覧車周辺にアメリカンヴィレッジがあります (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 さて、1972年に沖縄が本土復帰を果たし、日本国に属するようになると、今度は建設されたアメリカ軍基地の返還が課題となります。牧港住宅地区は1974年に返還が決まり、1977年から徐々に返還されていきます。
 しかし、これは住民にとってあまりうれしいものではなかったといいます。なぜなら、土地を返還されるとアメリカ軍からの地代という収入がなくなるばかりか、固定資産税がかかるようになるからです。
 そのため、地域住民は全面一括返還あるいは全面返還になるまでの国による補償を求めます。しかし、住宅とはいえ施設移転に費用・時間がかかることから一部返還が10年にわたって行われていくことになりました。
 さらに住民の足かせになったのは、返還後に一体的な街づくりを行うということでした。1975年からすでに計画は作られており、そのため自由な開発も許されず、一方で税金はとられるということで、土地所有者の中には土地を売る人もいたといいます。売られた土地は産業廃棄物処理業者の手に渡り、土地は産業廃棄物で埋められていきました。それは地域復興を渇望する人々にとっては悲しい光景だったのではないでしょうか。
 さて、ようやく1987年に全面返還が完了し、いよいよまちづくりがスタートします。新しいまちづくりには国・沖縄県・那覇市だけでなく地域振興整備公団も関わることとなり、那覇都市圏の郊外化に対処するため、住宅地を主体とした区画整理と都市開発を行うこととなりました。

 
1995年の那覇新都心の様子

1995年の那覇新都心の様子(三嶋啓二(2013)「那覇新都心の変遷」,『特定非営利活動法人沖縄ある記(地域文化支援ネットワーク)』http://okiaruki.com/wordpress/?p=1086 から引用)

 

ようやく動き出した新しい街づくりと町名騒動

 那覇新都心事業は1988年に協定書が締結されると、1992年からようやく土地区画整理が始まります。地権者が2千人いたこの地域では、複数の土地を集約し土地所有者の意向を反映しつつ共同利用を実現する手法がとられました。
 そんな中、1998年には新都心のセンター地区において名前の公募が行われました。1781点の応募の中から新町名選考委員会が選定したのは「ニライカナイ」、「おもろ町」、「ティダサンタウン」の3つでした。その後、那覇市町界町名審議会で検討された結果、「おもろまち」にする方向でまとまりました。
 「おもろ」とは12世紀から17世紀に歌われたとされる沖縄の古い祭祀歌謡で、「おもろそうし」という琉球王朝が採取・編集した古謡集もあります。選定理由としては「”おもろ”とは願いや希望の意味がある。新都心が県民・市民にとって21世紀へ向けた個性と調和に満ちた街として形成されることを願った」(『那覇新都心物語』より引用)とされています。
 これに対し、地域住民の一部らから反発があり、総合公園がある地域には銘苅の地名を採用すべきという意見や上泊という古くからある地名をセンターの名前にすべきという意見が出ました。
 しかし、結局は入居予定者の賛成意見が多かったこともあり、「おもろまち」が採用され、現在に至っています。
 このエピソードは、那覇新都心に関わっていた地域住民の「銘苅」をはじめとした土地のたどってきた歴史を忘れてほしくないという願いもあったのではないかと思われます。それほど、複雑な経緯をたどってきたまちということは頭の片隅に覚えておいてもよいと思えます。

 
おもろまち駅

那覇都市モノレール「ゆいレール」のおもろまち駅 (撮影:夕霧もや・2016年)

 

 さて、こうして新しいまちの基礎が出来上がっていった那覇新都心は 1998年から順次利用が開始され、6年で1万人以上が居住するようになります。また、県立高校の新設や国の合同庁舎の建設も行われました。

 しかし、今度は住宅・商業で思わぬことが起きます。次回は中々すんなりと発展していかなかった那覇新都心の姿を追います。

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参考文献

都市環境デザイン会議(2003)「日本の都市環境デザイン3 (中国・四国・九州・沖縄編)」建築資料研究.
那覇新都心地主協議会(2007)「那覇新都心物語 : 未来の物語をつくる」那覇新都心地主協議会.
那覇新都心地主協議会(2007)「那覇新都心物語 : 未来の物語をつくる ビジュアル版」那覇新都心地主協議会.
JCC出版部(2011)「絵で解る 琉球王国 歴史と人物」JCC出版.
屋比久孟尚(1995)「那覇新都心開発整備事業について」,『新都市』49-10,128-135頁
地域振興整備公団那覇都市開発事務所(1999)「ときめく未来が見えるまち「那覇新都心」 」,『用地ジャーナル』8-3,4頁
上運天一也(2005)「那覇新都心の竣工とDFSギャラリアの立地について」,『区画整理』48-2,68-71頁
三嶋啓二(2013)「那覇新都心の変遷」,『特定非営利活動法人沖縄ある記(地域文化支援ネットワーク)』http://okiaruki.com/wordpress/?p=1086(2017年9月3日確認)
沖縄県 ホームページ:http://www.pref.okinawa.jp/index.html(2017年9月3日確認)

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鳴海 行人
matinote仕掛人・ライター・マネージャー(編集長) 90年生まれのまち探訪家。 地域を俯瞰的に見つつ、歴史を掘り下げて現在の姿への系譜を探りながら、まちを観察をしています。地誌・地方都市・総合交通体系・ロードサイド・観光・空間デザインなど様々な視点を駆使し、まちを読み解くことがひとつの楽しみです。