【まちのすがた/観光】地域の中心商店街「国際通り」から観光地「国際通り」への変容―国際通りから見える”那覇”:第3回

 那覇の戦後復興は目覚ましく、その中心となった国際通りは「奇跡の1マイル」と呼ばれました。
 1972年に本土復帰を果たすと沖縄への観光ブームが起き、ショッピング観光の場所として、国際通りの一部が知られます。そして市民の生活スタイルの変化も相まって、次第に国際通り全体が観光地のようになっていくのです。
 今回は観光客向けに変容していった国際通りの姿を見ていきたいと思います。

 
国際通りと周辺商業施設の位置関係図

国際通りと周辺商業施設の位置関係図  (OpenStreetMapを元に作成) © OpenStreetMap contributors

 

 

国際通りのいま

 ゆいレールの県庁前駅を降り、国際通りを歩くと両脇には観光客向けの店が立ち並びます。泡盛の専門店やシーサーの置物をはじめとした民芸品の店、雑貨店、観光客向け飲食店、ホテルがあり、街並みは蔡温橋まで続いています。
 こうした今日の姿を見ると、かつては庶民向けの中心市街地であったことが幻であったかのようです。しかし、国際通りを1本外れたパラダイス通りや浮島通りには若者向け雑貨店が立ち並び、牧志公設市場周辺では地域住民向けの古い商店が立ち並んでいます。
 では、今の国際通りの街並みはどうやって生まれたのでしょうか。今回は「観光」と「クルマ社会化」を鍵に見ていきたいと思います。

 
土産物店が立ち並ぶ国際通り

国際通りには土産物店が立ち並びます (撮影:鳴海行人・2016年)

 

外貨獲得の場所として変容する国際通り

 国際通りがいまのようなショッピング観光の場所となるきっかけとして、アメリカ時代にショッピングスポットとして着目されていたことが挙げられます。
 きっかけは1948年にアメリカが建てた経済復興の計画です。そこでは、物資や資源に乏しい沖縄が対外収支の均衡をとれるように、外貨を獲得させようとしていました。その一環として、軍人による貴金属購入を促進させようと時計や宝石の税率を低めに設定しました。
 リウボウや沖縄山形屋が進出し、国際通りが成立していく1955年頃からは沖縄戦の遺族が戦跡観光を行うようになります。そして1958年になると本土からの渡航者の土産物持ち出し制限と外貨割り当てが緩和されます。これによって本土からの観光客が低率課税で安く貴金属が購入できるようになり、沖縄旅行は海外旅行と同じようにショッピングを楽しむことができるようになりました。
 1956年に沖縄旅行社が観光ツアー客に国際中央通りで土産物を購入する時間を設けており、やってきた観光客が海外製品を購入する姿が見られるなど、ショッピング観光が始まっていきました。

 
国際通りの商店会の位置関係図

国際通りの商店会の位置関係図  (OpenStreetMapを元に作成) © OpenStreetMap contributors

 

 その後、1960年代から島ぐるみで行われた本土復帰運動が成就し、1972年に沖縄県は日本国に復帰します。このころの国際通りはまだ日用雑貨を売る店が多く、土産物店の占める比率はまだ低いものでした。とはいえ、1960年代後半から土産物店や貴金類の店舗が占める比率がだんだんと上がっていきます。
 中でも土産物店は1963年には11店舗だったものが69年には25店舗、75年には41店舗にまで増えています。特に国際中央通りでの増加が激しく、1963年から75年にかけて14店舗の増加が見られます。
 本土復帰後、沖縄はますます観光地としてまなざされるようになります。1975年には沖縄本島北部の本部町で「沖縄海洋博」が行われ、70年代後半からは航空会社が沖縄キャンペーンを実施し、大ヒットします。その中で国際通りは沖縄を代表する観光地としてまなざされるようになるのです。

 
国営沖縄記念公園遠景

1975年に沖縄海洋博が行われたエリアは公園として整備されています (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 それと呼応するように国際劇場は国際ショッピングセンターへと姿を変え、中には土産物店が多く入居しました。そして、海洋博と前後してホテルも多く建設されていきます。
 こうしてだんだんと国際通りが観光地として認識され、変容していったのです。それでも1990年頃までは地元客と観光客が入り混じる場所でした。

クルマ社会とスーパーマーケットの伸長

 国際通りの観光地化を考える上でもう1つ欠かせないのはクルマ社会化です。沖縄県では特に1960年代後半に著しく進み、運転免許保有者は1965年から1970年の間に約3倍(4万人から11万4千人)に増え、小型4輪自動車は4倍(1万1千台から4万4千台)にも増えています。人口の伸びは沖縄県全体でも1万人程度だったことを考えるとクルマの普及は目覚ましいものがあります。

 
麻の国道58号線

朝の国道58号線久茂地交差点付近の様子です。写真右の車線はバスレーンのため空いていますが、その他の車線は両方向共に交通量が多い様子が分かります (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 すると、今度は中心市街地が車社会化に対応できなくなります。国際通りも例外ではなく、狭隘な通りは渋滞し、駐車場も足りないといった状態でした。そして駐車場を新しく作ろうにも、地価が高くなっており、場所がないといった状態でした。
 1970年頃から、沖縄ではスーパーマーケットが徐々に広がりを見せるようになります。その中で迎えた1972年の本土復帰は、本土の資本が沖縄に上陸する機会を生むものでした。中でも1975年にダイエーが開業した「ダイナハ」(のちにダイエー那覇店と改名)は県民に衝撃を与え「ダイナハショック」と言われるほどでした。

 
D-naha

美栄橋近くに立地する「D-naha」 (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 その後1984年にかけて「サンエー」の那覇店をはじめとするスーパーマーケットが相次いで開業します。
 1990年頃になるとクルマ社会と浦添市や糸満市といった那覇郊外部においてスーパーが増えたことにより、那覇中心市街地も焦りを覚えるようになります。1990年に行われた「ダイナハ」の営業時間拡大は周辺商店会も歓迎するもので、同時期に沖縄三越(1957年開業)も増床が行われています。リウボウは店舗拡大のため、西友の資本参加を受けながら大規模投資を行い、現在の位置へと移転します(1991年)。
 しかし、こうした中心市街地の防衛策もささやかに見えるほど、郊外への店舗展開は広がっていき、1993年には那覇市内の小禄地区に大きな駐車場を併設したジャスコ那覇店が開業し、1997年には北谷町に複合商業施設「アメリカンヴィレッジ」が開業するなど大型店舗も数を増やしていきます。
 すると、地域住民にとって、国際通りまで行って買い物する理由優位な点がだんだんと少なくなっていきました。そして、1990年代後半に国際通りでは一気に年間販売額が落ち込むこととなります。

 
那覇周辺の大型商業施設立地状況

那覇周辺の大型商業施設および主な観光地の立地状況  (OpenStreetMapを元に作成) © OpenStreetMap contributors

 
アメリカンヴィレッジ

北谷(ちゃたん)町にある「アメリカンヴィレッジ」です。ウエスタン風の建物と観覧車が目を惹きます (撮影:鳴海行人・2016年)

 

観光地になるしかなかった国際通り

 こうして地域住民が離れていった国際通りでは地域の中心となる店の閉店も相次ぎます。1999年には沖縄山形屋、2005年にはダイナハ、2013年には那覇OPA(1984年にフェスティバルビルとして開業)、2014年には沖縄三越とほとんどの大型店舗は閉店してしまいました。国際劇場の場所にあった国際ショッピングセンターも2000年に閉店し、2004年からてんぷす那覇になっています。

 
ハピナハ

旧・沖縄三越の「ハピナハ」です。2017年の6月末に賃貸契約が切れ、閉店となりました。今後の再開発計画は現在協議中です (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 その結果、2000年代には土産物屋の占める割合が大きく増えたようです。新聞記事では「数年前に店舗全体の6割程度とされていたが、現在は「8割ほどにまで増えた」(商店街関係者)」という報道があります。
 それでは、地域の市場だった牧志公設市場はどうだったのでしょうか。こちらも例外ではなく、国際通りよりも早い時期に客足の落ち込みがあったといいます。しかし、1990年に上海の市場をまねた観光客向けの作りに変えていくことによって、一気に客足が伸びました。公設市場周辺の商店街も土産物屋や雑貨店が多くなっていったようです。
 国際通りに話を戻すと、大型商業施設の跡は現在、様々な利活用がされています。沖縄山形屋跡がJALシティホテルに(2006年)、ダイナハ跡がジュンク堂を核テナントにした「D-naha」に(2009年)、那覇OPA跡がドン・キホーテに(2013年)、沖縄三越跡が複合商業施設のハピナハに(2015年~2017年6月)なりました。中でもドン・キホーテは観光客向けの品ぞろえで人気を博しています。

 
むつみ橋交差点

写真中央の建物が元・那覇OPAです。安藤忠雄氏設計の建築で、「サンライズビル」として開業した時は現在よりも大胆な構造だったそうです (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 こうしたますますの観光地化現象はバブル期以降下がらなかった地価も原因とされ、「採算がとれるのは観光客相手の土産物店だけ」(商店会関係者)という見解もあります。
 つまり、国際通りは様々な要因によって「観光地化せざるをえなかった」といえるのではないでしょうか。

これからの国際通りを考える

 さて、地域の買い物の場から観光地へと変容していった国際通りは今後どうなっていくのでしょうか。
 国際通りは両端を空港直結のモノレールの駅に挟まれ、ホテルも多く立地しています。現状は観光客に十分魅力のある環境といえます。近接する那覇新都心には那覇メインプレイス(2002年開業)や大型免税店のT・ギャラリアといった観光客向けになりうる大規模商業施設がありますが、国際通りのネームバリューから考えると観光需要が極端に減るとは考えづらいです。

 
那覇メインプレイス

那覇新都心にある「那覇メインプレイス」です。市民の方いわく、「国際通りよりもこちらの方がお土産物は安く売っている」とのこと (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 しかし、国際通りの店舗を見ていると「どこにでもありそう」な土産物店が増えているのも事実で、多くの土産物店が賃貸のため、地域への帰属意識が薄いのではないかといわれています。
 とはいえ、当面は国際通りのショッピング観光地としての役割は続くのではないかと考えられます。
 理由としては現状の地価の問題、超クルマ社会の沖縄において駐車場が少ないという地元客に対するマイナス面、そして沖縄本島中部にイオンモール沖縄ライカムが開業(2015年)したことや浦添市内に大型商業施設を建設しているという周辺の情勢があります。こうした材料を見ると、地元客を国際通りへ呼び寄せるのは中々難しいのではないかと考えられます。

 
イオンモールライカム沖縄

イオンモール沖縄ライカムの正面入口です。「ライカム」は「琉球米軍司令部」の通称で、モールはリゾート型のモールとなっています (撮影:夕霧もや・2016年)

 

 しかし、牧志公設市場のような「地元民がいるような沖縄らしさ」といった観光客がイメージし、ひきつけられる要素が維持される必要もあります。現在、牧志公設市場周辺エリアでは地域の買い物客や商店主の高齢化が指摘されており、これから観光客が期待する「それっぽい牧志公設市場周辺」の維持は大きな課題となりそうです。
 こうした状況を考えると、地元客の呼び戻しよりも、いまうまくいっていることを生かし、今後は「沖縄らしい観光・ショッピングができる場所」となっていくことを志向していく方が良いのではないかと言えるのではないでしょうか。そのためには包括的に地域をとらえなおし、上手く観光客と地域住民の動きが交錯する場所を作る必要があるように思えます。

 
牧志公設市場周辺・裏通り

牧志公設市場周辺の裏通りにはいまだに写真のような地元向けの店もあります (撮影:鳴海行人・2016年)

 
牧志公設市場周辺のせんべろ

牧志公設市場周辺には、写真のような沖縄らしい建築空間で手軽に飲める場所があります。こういった場所が観光客と地域住民を結びつける場所として期待できるかもしれません (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 ここまで3回にわたって国際通りから見える那覇というまちの姿を見てきました。そこには那覇の歴史そのものが背後にあるようにも思えます。
 だからこそ、国際通りというものの中身が変容しようとも、末永く残り、那覇というまちの歴史を後世に伝えていってほしいと願わずにはいられません。

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参考文献

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浦添西海岸計画 | 株式会社サンエーパルコ:http://www.parco.co.jp/san-a_parco/(2017年8月30日確認)

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鳴海 行人
matinote仕掛人・ライター・マネージャー(編集長) 90年生まれのまち探訪家。 地域を俯瞰的に見つつ、歴史を掘り下げて現在の姿への系譜を探りながら、まちを観察をしています。地誌・地方都市・総合交通体系・ロードサイド・観光・空間デザインなど様々な視点を駆使し、まちを読み解くことがひとつの楽しみです。