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小田急線でゆるやかにつながるまちー湧水とたばこのまち・秦野:第4回(最終回)

 前回まで秦野市の中心部について話をしてきました。今回は、秦野市の外縁部、とりわけ中心地とのつながりが薄い西・大根地区を取りあげ、現在の秦野の姿について考えます。

 
秦野市各地域位置関係

秦野市の各地区と丹沢の山および小田急の駅の相関関係  (OpenStreetMapを元に作成) © OpenStreetMap contributors

 
 

農村を目指した西秦野町

 第二次世界大戦後になると、都市化の波が首都圏各地にやってきます。秦野も例外ではなく、1950年代には秦野を周辺市町村との合併で都市としようとする構想が出てきました。いわゆる「昭和の大合併」の一環ですが、秦野の場合は別の目的を持っていました。それは関東大震災後の地形変化に伴う道路・河川インフラの整備です。これは「秦野」、つまり本町の市場を中心としてタバコ葉栽培で連帯していた地域にとっては重要なことでした。
 一方で抱き合わせで都市化することに対し、不安の声も出ました。とりわけ、「秦野」の地名を使っていた各自治体の中で一番過敏に反応したのは、西秦野村でした。

 
秦野市渋沢から峠

旧西秦野村中心部の渋沢駅南側の様子です。渋沢鉱山のあった「峠」方面をみると、宅地化が進行していることがわかります。 (写真:鳴海行人・2017年)

 

 西秦野村は今の小田急線渋沢駅近くを中心としていました。1950年代は純粋な農村地域で、南側に渋沢鉱山という黄鉄鉱を産出する鉱山がある程度でした。
 そんな西秦野村は秦野の名の元に合併すると急速な都市化が進み、農村として生き残っていけなくなると危惧したのです。そこで、上秦野村や北秦野村と共に農村・西秦野町として生き残るという考えが中心になっていきました。
 その後、北秦野村は秦野町の合併構想に合流、上秦野村と西秦野村で合併という話になり、1955年西秦野町が誕生しました。しかし、わずか8年で秦野市と合併します。1963年に行われた合併の子細については記されていませんが、おそらくは水無川の治水事業や上下水道事業などインフラの都合があったのだろうと推測されます。

丹沢登山の玄関口、西秦野

 さて、西秦野町は成立当初、丹沢登山ブームに沸いていました。1955年の神奈川国体における登山コースに指定されると、次々と人々は表丹沢の山々を目指すようになったのです。
 表丹沢の玄関口となっていたのは渋沢駅でした。さらに1965年に国定公園に指定されると、丹沢はすっかり関東近郊の登山コースとして定番の場所となります。
 1960年代には小田急電鉄がロープウェイを架ける計画もありましたが、アクセスバスの安全性に関する課題と1970年代の自然保護運動により断念となりました。それでも、表丹沢を目指す人々は絶えませんでした。現在もオンシーズンの土休日になると朝早くから多くの人が渋沢駅から表丹沢を目指しています。

 
渋沢から表丹沢を望む

国道246号線にかかる歩道橋からみた表丹沢の山々です。表丹沢の登山口、大倉へは写真下の県道を通るバスで行くことができます (写真:鳴海行人・2017年)

 

 先述の通り、この表丹沢の山々から注ぎだす川の治水が秦野市内では課題でした。特に水無川は河原が荒れ野となっていました。荒れ野のため、水の本流が定まらないことから、水無川と名付けられたほどです。さらには関東大震災で地形変化もあり、地域住民にとっては治水は悲願となっていました。

 
水無川(秦野市)

治水工事がなされた水無川の様子 (写真:鳴海行人・2017年)

 

 そこで、神奈川県と秦野市は1950年代から水無川の治水を推し進め、堤防の整備と荒れ地の整地を行いました。そして、整地されたエリアに工場を誘致するようになります。これが秦野における工業化の先駆けでした。

 
秦野市の工場地域

工業化に伴って整備された都市計画道路と工場街 (写真:鳴海行人・2017年)

 

 高度経済成長期には大規模工場の誘致を推し進め、タバコ葉の出荷額低迷(前回記事参照)も相まって水無川を中心として大規模工場が多く立地するようになりました。また、国道246号線近くにはロードサイド店舗も集積するようになりました。
 一方で、渋沢駅周辺の商店街も小規模ながらしぶとく残り、食品スーパーや立派な衣料品店の集積が見られ、まるで別の町の玄関口のようになっています。

 
渋沢商店街

渋沢駅は北口・南口双方に商店街があります。南口の商店街は区画整理の影響か、綺麗な街並みとなっています (写真:鳴海行人・2017年)

 

村が分裂しながらも秦野に属した大根地区

 今度は秦野の東に目を移してみましょう。現在は東海大学前駅や鶴巻温泉駅を中心に発展しているエリアがあります。
 ここには1955年まで大根村がありました。「秦野」という名は関していませんでしたが、秦野との結びつきは強く、秦野町を中心とする協同組合に参加していました。
 さて、秦野市成立の際に大根村も合併の流れに巻き込まれることとなります。しかし、秦野盆地にも属さず、伊勢原や平塚とも遠いこの地区では議論が紛糾することになります。結果、大根村の一部にあたる真田地区が平塚と合併する道を選び、それ以外の大根村が秦野と合併しました。

 

秦野市大根地区の全体図  (OpenStreetMapを元に作成) © OpenStreetMap contributors

 

 このため、東海大学前駅周辺ではすぐ近くまで平塚市の境界が迫っています。また、のちに移転してくる東海大学のキャンパスは平塚市、一方で駅は秦野市という状態が生まれました。

 
秦野市と平塚市の境目

秦野市と平塚市真田地区(旧大根村真田地区)の境目です。写真手前が秦野市、写真奥が平塚市となっていて、間の道路整備の遅れから「市境」を感じることができます (写真:鳴海行人・2017年)

 

温泉街と学生街、それぞれの発展

 秦野市に属した後の大根地区は地区内にある2つの駅がそれぞれの発展をします。
 まず、鶴巻温泉駅は大正(一説には明治)期に採掘された鶴巻温泉を中心に温泉街として栄えます。将棋のタイトル戦の場として使われる高級宿の「元湯陣屋」をはじめ、全盛期には14軒の温泉宿があったといいます。しかし、高度経済成長期のマンション開発をきっかけに、あたりはマンションが立ち並ぶようになり、普通の郊外住宅地へと変貌していきました。

 
鶴巻温泉駅前の様子

鶴巻温泉駅前の様子です。マンションが立ち並び、市内では最も東京近郊の住宅街という感じを受けます (写真:鳴海行人・2017年)

 
鶴巻温泉「元湯陣屋」

鶴巻温泉で最も歴史の古い「元湯陣屋」です。元々は「平塚園」という三井財閥の別荘から始まっています (写真:鳴海行人・2017年)

 

 現在では温泉旅館も4軒にまで減り、温泉街の面影はあまり見ることはできません。
 東海大学前駅は元々大根駅と称していました。1960年代までは大根地区の玄関口として機能してきましたが、1963年に東海大学湘南キャンパスが開校してからは街の性格が変わっていきました。
 農村だった地域には徐々に学生の住むアパートや学生向け商店が増えていきました。また、住宅公団の下大槻団地が造成され、宅地開発も進んでいきます。現在では一つのまちの玄関口のような商店街が広がり、若者が多く乗り降りする駅となっています。

 
東海大学前駅前

東海大学駅前の様子です。写真赤丸で囲んだところが東海大学の建物で、駅から15分ほどかかります (写真:鳴海行人・2017年)

 
東海大学駅前の商店街

東海大学前駅前に伸びる商店街の様子です。若い学生向けの店やゲームセンターがあり、多くの学生が行きかいます (写真:鳴海行人・2017年)

 
 

秦野市はゆるやかな連合体

 ここまで見てきたように、秦野市と一口にいっても、地区によって表情が全く違います。かつてはタバコ葉栽培でつながり、現在も湧水や水道で表丹沢の水の恵みを受けている点で各地域は共通しています。
 しかし、現在の結びつきの形は小田急線の駅を中心としたゆるやかなものとなっており、それが「秦野市」というカタチにまとめられているように見えます。

 

渋沢駅に停車する小田急

 

 こうした多様な役割が一つの自治体に内包されていることは中心性がぼやける要因になる一方で、住民にとっては余暇時間や住まい選びで多彩な選択肢があるといえます。特に自然豊かな都市を目指す秦野市は子育て世代にとってはとてもよいロケーションのように思えます。
 今ある強さにさらに多様性という強みをプラスすることでより伸びしろが生まれるように思える秦野市。これからもゆるやかな連合体らしい都市運営と変化に期待したいと思います。

 

秦野市を流れる水無川

[参考文献]

秦野市史編さん委員会(1985)『秦野市史 第4巻』秦野市.
秦野市史編さん委員会(1986)『秦野市史 第5巻』秦野市.
秦野市史編さん委員会(1986)『秦野市史 第6巻』秦野市.
「図説・秦野の歴史」編集委員会(1996)『図説 秦野の歴史 1995』 秦野市(管理部文書課市史編さん担当).
井上卓三(1978)『秦野たばこ史』(財)専売弘済会文化事業部.
秦野市HP:http://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/index.html(2017/4/22確認)

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地域を俯瞰的に見つつ、現在に至る営みを紐解きながら「まち」を訪ね歩く「まち探訪」をしています。「特徴のないまちはない」をモットーに地誌・観光・空間デザインなど様々な視点を使いながら、各地の「まち」を読み解いていきます。