【まちのすがた/交通】「鎌倉山」ブランドは自動車専用道路計画から始まった―「鎌倉山」ものがたり:(前編)

 鎌倉時代に幕府の開かれた古都・鎌倉。古刹や名勝がたくさんある一大観光地のイメージが強いまちです。
 また、別荘地・高級住宅地としても名高く、人気の高いまちでもあります。高度経済成長期以降にはいくつもの大規模住宅開発計画が行われ、自然保護と住宅開発の間で何度も住民とディベロッパーがぶつかってきました。
 中でも「鎌倉山」と呼ばれる一帯は豊かな自然も多い一方、太平洋戦争前から住宅開発がはじまり、いくつもの大規模住宅分譲も行われてきた「開発されたまち」です。その中で日本初のものがいくつも生まれてきました。

 そこで今回は「鎌倉山」をめぐる開発の歴史を2回に分けてお届けします。 

 
鎌倉山と日本自動車道の周辺地図です。日本自動車道の上には後年になると湘南モノレールが走るようになります

鎌倉山と日本自動車道の周辺地図です。日本自動車道の上には後年になると湘南モノレールが走るようになります (OpenStreetMapを元に作成) ©OpenStreetMap contributors

 

江ノ島へ向けて作られた日本初・最新の交通「日本自動車道」

 「鎌倉山」は昭和初期に生み出された地名で、1本の自動車専用道路計画に端を発します。

 大正末期には人気の観光地であった江ノ島へは東京から2通りの行き方がありました。1つは東海道線で藤沢を経由するルート、もう1つは横須賀線で鎌倉を経由するルートです。いずれにしても少し遠回りになる感じは否めず、大船から江ノ島へ直線的に移動できる交通機関が企図されました。
 折しも、自動車交通が急速に普及した時期でもあり、それに伴って交通事故による死傷者数が1万人を超えてくると、自動車と人や牛馬車との棲み分けも重要な課題となってきました。そこで1925年頃に大船と江ノ島を結ぶ自動車専用道路の建設が企図されます。しかし、まだ日本に自動車が普及してから20年も経っていない時で、構想時から自動車専用道路の事業だけでは成立するのが難しいと考えられました。
 この時建設を企図していた実業家(*1)の集まりは「江ノ島遊覧自動車土地株式会社創立事務所」(1926年)を作り、見晴らしのいい山の上を住宅地・別荘地として株主に分譲し、そのアクセス路として自動車専用道路を経営するというプランで資金を集めようとします。

 
鎌倉山のメインストリートです。斜面地にあり、見晴らしのいいところもあります

鎌倉山のメインストリートです。斜面地にあり、見晴らしのいいところもあります (撮影:鳴海行人・2017年)

 

 1926年末には神奈川県指令の形で認可が下り、資金が集まれば株式会社が成立して工事が開始される予定でした。しかし、資金は思うように集まらず、1928年には鎌倉に仮住まいを構えていた成金・菅原通済(*2) (*3)の手で再度「江ノ島大船専用自動車道株式会社」が設立され、そちらに構想が引き継がれました。
 菅原は人脈もあり、スケールの大きいことを考えるのが好きな人物だったらしく、会社名をすぐに「日本自動車道」に変更しました。そして、ゆくゆくは東京大阪間に自動車専用道路を作る構想を立てていました(*4)。そのためか、会社設立後すぐに「自動車道」という書物を著して自動車道事業の効用を説いています。
 そして交詢社(福沢諭吉が作った社交クラブ)系の人脈を用いて会社設立を行い、江ノ島遊覧自動車土地のモデルを多少改変した形で資金集めを行います。人脈の効果もあったのか、資金はすぐに集まり、自動車道開通への下準備がようやく整いました。

 このころ、私鉄経営者として有名な小林一三経由で菅原に江ノ島電鉄株式購入の話が舞い込み、1929年に江ノ島電鉄の常務となります。江ノ島電鉄も大船から江ノ島への軌道線建設を申請しており、5月にはこの鉄道敷設免許を日本自動車道(*5)に譲渡します。そして江ノ島電鉄が買収していた土地も利用することで1930年8月に大船から片瀬(江ノ島口)を結ぶ日本自動車道が開通しました。総工費は60万円(現在の価値にすると約11億円)、通行料は一般自動車で片道25銭でした。そして大船と鎌倉山・江ノ島を結ぶ日本自動車道経営のバスも走るようになります。

 日本自動車道は有料の自動車専用道路としては日本初であり、最新の交通でした。一方、今日の高速道路のような自動車専用道を考えていた道路技術者の間ではカーブの多い線形や道幅の狭さ(*6)に不満の声が多かったようです。通行量も伸び悩み、1930年に調査したものでは1日あたり平均約370台と多くはありませんでした。

 
日本自動車道時代から残っていたであろう横須賀線の小袋谷こ線橋です。現在は新しい橋にかけ替えられました

日本自動車道時代から残っていたであろう横須賀線の小袋谷こ線橋です。現在は新しい橋にかけ替えられました (撮影:鳴海行人・2013年)

 

「鎌倉山」ブランドの確立

 日本自動車道の建設と同時期に、資金集めを目的として「鎌倉山住宅地設立準備組合」が作られました。現在まで続く「鎌倉山」の名前はこの時に誕生します。
 そして1930年7月には自動車道全通を前にして、鎌倉山住宅株式会社の第1回株主総会が開かれ、「鎌倉山」という名前を用いた会社が成立しました。日本自動車道株式会社と鎌倉山土地株式会社は別会社になり、日本自動車道は自動車道事業と乗合バス事業に専念することになります。住宅地の登記変更は12月に行われました。
 さて、鎌倉山の住宅開発ですが、1928年に住宅地の設立準備が始まると、政財界のトップクラスの人々がこぞって購入を申し込みます。その後第2回・第3回と開発分譲を行うまでの盛況ぶりでした。土地は300坪以上と広く取ったうえで抽選によって分譲され、造成・建築は株主が行うものとしました。そのため、自然の地形に沿った住宅開発が行われました。

 1931年には福沢桃介が交詢閣を作り、帝国ホテル直営の社交場として利用されるようになります。また、町内の住民組織として「友美会」が作られ、鎌倉山のまちをより良いものにしようと活動していきます。
 こうしたイメージアップにつながる活動により「鎌倉山」の高級イメージが根付いていきました。

 

日本自動車道と鎌倉山住宅のおわりと太平洋戦争

 日本自動車道の運営するバスは大船から鎌倉山まで7分、大船から江ノ島口まで10分で結んでいました。当初、日本自動車道は16人乗りバス6台を保有し、鎌倉山住宅地に居住している人には全線無料乗車券が1家族に1枚配られていたといいます。
 その後乗合バス事業は1931年に江ノ島鎌倉遊覧自動車を買収したことで、長谷・鎌倉中心部方面への路線もできていきました。しかし、資金繰りは苦しく、税務署の差押えを何とか逃れながらバスを運行していたといいます。
 最終的には1938年の京浜電気鉄道(現在の京急電鉄)による株式買収で経営権が移りました。このころは7路線20.8kmの路線バスを運行し、鎌倉の名所めぐりをする定期遊覧バスも運行していました。最終的には1941年に湘南半島自動車との合併を経て京浜電気鉄道のバス路線および自動車道になりました。

 
大船駅からは鎌倉山および江ノ島方面に京急バスが発着します。これは日本自動車道の乗合バス事業を引き継いだ名残です

大船駅からは鎌倉山および江ノ島方面に京急バスが発着します。これは日本自動車道の乗合バス事業を引き継いだ名残です (撮影:鳴海行人・2017年)

 

 不動産事業を営んでいた鎌倉山住宅も1930年代後半になると土地の買い手がいなくなり、建売住宅の販売を行うも不調に終わっていました。その後は維持管理の経費がかさんで経営が苦しくなり、1947年に国土計画興業株式会社(のちのコクド)に合併されてしまいます。
 太平洋戦争中の鎌倉山は周囲とは一段違った高級住宅地でした。例えば当時在住していた首相の近衛文麿氏や陸軍大将の荒木貞夫氏が地域で行われた「国威発揚」の場に迎えられたり、警備の憲兵が配備されたりしました。地下には本土決戦時に陣地となるよう地下壕が掘られましたが、使われることはあまりなかったようです。戦後は住宅地が進駐軍の幹部向け住宅として接収されます。自動車専用道路は戦時中に戦車のテストコースにも使われ、舗装はボロボロになり、戦後のこの復旧を巡って鎌倉市とバス会社の間でやり取りが行われます。

 荒廃してしまった「鎌倉山」が再び高級住宅街となり、あたり一帯が注目されるのは高度経済成長期以降のことになります。

(*1)この時の代表とされているのは日清汽船の社長・森辯次郎です。ただ、大株主としては武蔵境駅開業に尽力した秋本喜七が最も多くなっています。
(*2)菅原通済は鉄道技師・菅原恒覧の次男です。恒覧は甲武鉄道(現在のJR中央線)建設に大きくかかわり、トンネル開削に強みを持っていました。ちなみに、鎌倉山分譲の際は恒覧も移住し、その様子を「清香園誌」に記しています。
(*3)菅原通済は関東大震災の復興事業で一財を成し、交詢社との人脈も築きました。そのほかにも会社整理も手掛けており、小林一三とはその縁で知り合っています。
(*4)1928年から2年かけて路線の確定や関係市町村との調整を行い、あと少しで認可が下りるところまでいきましたが、有力発起人の辞退により断念せざるを得なくなりました。経由地は八王子、静岡、岡崎、名古屋、大津、京都、大阪で予算は8,000万円(現在の価値では約1500億円)でした。
(*5)この「日本自動車道」ははじめの会社を一度整理し、江ノ島電鉄を株主に入れることで江ノ島電鉄の関連会社として再度設立しています。
(*6)江ノ島電鉄の大船線用の敷地を使ったこと、また当時自動車道に関わる法律がなかったために強制収用が適用できなかったことが理由として挙げられています。

参考文献など

帝国興信所(1926)「帝国銀行会社要録 大正15年版」帝国興信所.
菅原通済(1928)「自動車道」日本自動車道.
菅原通済(1966)「通済一代」実業之世界社.
菅原通済(1971)「無手勝流」常盤山文庫出版部.
不動健治(1971)「鎌倉山 叢談」鎌倉山風致保存会.
京浜急行電鉄株式会社社史編集班(1980)「京浜急行八十年史」京浜急行電鉄.
鎌倉市市史編さん委員会(1994)「鎌倉市史 近代通史編」吉川弘文館.
山本節子(1997)「西武王国 鎌倉」三一書房.
京浜急行電鉄(1999)「京浜急行百年史」京浜急行電鉄.
江ノ島電鉄株式会社開業100周年記念誌編纂室(2002)「江ノ電の100年」江ノ島電鉄.

池本泰見(1930)「大船片瀬間自動車道路を見て」,『エンジニアー』9-9,22-26頁
坂田時和(1930)「自動車専用道路見学」,『エンジニアー』9-9,26-28頁
江守保平(1930)「鎌倉山自動車道路について」,『エンジニアー』9-10,32-35頁
長江了一(1930)「日本最初の自動車専用道路」,『エンジニアー』9-10,35-36頁
浅香小兵衛(1930)「自動車道に就て(二)」,『エンジニアー』9-10,37-43頁
地学雑誌(1931)「自動車専用道路」,『地学雑誌』43-7,422a-424頁
工事画報(1928)「東京大阪間の自動車道路」,『工事画報』4-5,39頁
赤松 加寿江.,片山 伸也,水沼 淑子ほか(2012)「昭和初期の別荘地開発と住宅地形成に関する研究 鎌倉山住宅地開発にみる住分化の継承と変容」,『住総研研究論文集』38,113-124頁

江ノ島遊覧自動車土地株式会社創立事務所(1925)「江ノ島遊覧自動車土地株式会社 創立趣意書」ほか付随資料
鉄道省ほか(1928-1934)「江ノ島電気鉄道江ノ島新大船間鉄道敷設権を日本自動車道会社に譲渡の件」ほか付随資料
神奈川県土木部道路補修課(1930)「日本自動車道に関する諸調査の件田中事務官へ回答案」ほか付随資料

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鳴海 行人
matinote仕掛人・ライター・マネージャー(編集長) 90年生まれのまち探訪家。 地域を俯瞰的に見つつ、歴史を掘り下げて現在の姿への系譜を探りながら、まちを観察をしています。地誌・地方都市・総合交通体系・ロードサイド・観光・空間デザインなど様々な視点を駆使し、まちを読み解くことがひとつの楽しみです。