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【まちのすがた】「鎌倉山」の広がりと住民自治―「鎌倉山」ものがたり:(後編)

鎌倉市の北西に広がる鎌倉山地区。前回は「鎌倉山」の成立とその経緯について追いました。今回は第二次世界大戦後の「鎌倉山」ブランドを活用した住宅地開発と住民自治によるブランドづくりについてとりあげます。

 
鎌倉山および京浜急行専用道路(赤線)と周辺の開発された住宅地との位置関係です

鎌倉山および京浜急行専用道路(赤線)と周辺の開発された住宅地との位置関係です (OpenStreetMapを元に作成) ©OpenStreetMap contributors

 

鎌倉山と大規模開発事業

 現在、電車やバスを使って鎌倉山へ向かうには大船駅か鎌倉駅から京急バスを利用します。
 JR大船駅を降りて東口へ向かうと湘南モノレールの大船駅があり、その真下に交通広場があります。この交通広場から京急バスと江ノ電バスが発着しているのです。
 京急バスは途中までモノレールの下を走って住宅地へ向かう路線になっています。一見、湘南モノレールと京急バスはライバル関係にも見えますが、実は行先を見るとそうではありません。モノレールの駅より高台にある住宅地へ向かい、モノレールではカバーしきれない需要を拾っているのです。そうしてみると相互補完の関係にあることが分かります。鎌倉山もモノレールの駅からは遠く、バスを利用することになります。
 ところで、湘南モノレールとバスのこの絶妙な力関係はどのようにして生まれたのでしょうか。これは太平洋戦争後の鎌倉山にまつわる歴史を紐解くと明らかになります。

 
大船駅東口の様子

大船駅東口の様子 (撮影:鳴海行人・2013年)

 

 太平洋戦争前、日本自動車道だった自動車道は、1950年から「京浜急行専用道路」として営業を再開しました。また、バスも専用道路経由のものが鎌倉山や江ノ島に向けて走っていました。とはいえ、京急はそこまで自動車道事業に積極的ではなかったようです。1965年には鎌倉市に全線売却を試みますが、失敗に終わります(*1)。その頃、「鎌倉山」の周辺はどうだったのでしょうか。
 まず、前回取り上げた鎌倉山住宅地株式会社は1948年に国土計画興業株式会社と合併します。国土計画興業はのちにコクドと改名し、西武グループの中核を担うことになる不動産会社で、このころ鎌倉の地でじわりじわりと勢力を広げていました。
 その後、戦後の高度経済成長期を迎え、鎌倉山地区の北東側では野村不動産が、西側では鎌倉山を足掛かりにして西武グループが大規模な不動産開発を進めていきます。
 野村不動産は同社最初の大型住宅開発として、1961年に梶原地区の東側を「鎌倉梶原山住宅地」として造成します。住宅地と野村総合研究所が合わせて作られ、1963年から1967年にかけて分譲されました。当初は北鎌倉駅との間に専用道路が作られ、バス路線が開設される予定でしたが、沿線の反対にあい、中止となっています。その代わりに1964年から大船駅・鎌倉駅・藤沢駅にアクセスできる江ノ電バスと京急バスが乗り入れはじめ、1972年には本数を大幅に増やしました。
 1965年からは梶原よりも北の丘の上で「鎌倉丸山住宅地」と「鎌倉大平台住宅地」が分譲をはじめました。ただこちらは長らくバス路線がなく、利便性はよくないままでした。

 
野村総合研究所跡にかかる「野村橋」から望む「鎌倉梶原山住宅街」の様子

野村総合研究所跡にかかる「野村橋」から望む「鎌倉梶原山住宅街」の様子 (撮影:鳴海行人・2017年)

 

 鎌倉山の北東側で野村不動産が開発したあとは西側で西武グループが住宅開発に乗り出します。
 西武グループは土地を多く購入し、道路整備とセットで住宅開発やリゾート開発を推し進めていこうとしていました。まるで戦前の日本自動車道のようなモデルですが、西武の場合は不動産開発が主で道路整備は従でした。さらに、道路整備した後に堤康次郎の政治力を駆使して自治体に売ることなどを目的としており、自動車道事業を営むわけではありませんでした(*2)
 そして1962年から西鎌倉で住宅地造成をはじめます。山を大きく切り崩して行われた造成工事で、当時の航空写真を見るとそのあまりの大規模さに驚かされます。そして1965年から住宅地の分譲をはじめました。当時の広告には「古都に抱かれた文化生活」というキャッチコピーが付けられており、鎌倉のイメージを利用しています。
 はじめのころ西鎌倉分譲地は家もまばらで海はもちろん、富士山も見えたといいます。1969年にはようやく大船駅からの京急バスと藤沢駅からの江ノ電バスが乗り入れます。
 そして、このころ計画されていたのが湘南モノレールでした。1964年に「京浜急行専用道路」の上を通る免許申請を行い、数々の困難を経て1970年には大船~西鎌倉が、1971年には西鎌倉~湘南江の島が開業します。これにより、西鎌倉の利便性は大幅に向上しました。

 
湘南深沢駅に停車する湘南モノレール

湘南深沢駅に停車する湘南モノレール (撮影:鳴海行人・2017年)

 

 この時代の不動産開発は当初の鎌倉山のように自然地形を活かしたものではなく、自然地形を改変してまでも行われたことが特徴的です。また、特筆すべきは住宅地に併せてスーパーも一緒に作られたことです。西鎌倉には当時西武流通グループに属していた西友ストアが、鎌倉梶原山には野村不動産が立ち上げた野村ストアが作られました。特に野村ストアは特色があり、現在のコンビニより少し広い300~500㎡のミニスーパーをいくつも作りました。鎌倉市内には最終的に梶原・梶原口(現在のグルメシティ鎌倉店)・丸山の3店舗を構えていました(*3)

 
梶原口にあるグルメシティ鎌倉店の外観です。ここは野村ストア→ナイス→グルメシティと変化してきました。

梶原口にあるグルメシティ鎌倉店の外観です。ここは野村ストア→ナイス→グルメシティと変化してきました (撮影:鳴海行人・2017年)

 
西鎌倉住宅地の入口にあるローソンの場所には以前、西友ストアーがありました。

西鎌倉住宅地の入口にあるローソンの場所には以前、西友ストアーがありました (撮影:かぜみな・2017年)

 

 そして、周辺で大規模な宅地開発が進められるなかで、「鎌倉山」が広がりを見せるのは湘南モノレール開通後のことでした。
 西鎌倉駅の南側にある山が切り崩され、分譲地となります。ここは江ノ島電鉄をはじめ、三菱の不動産部門や湘南モノレールが不動産開発を行っていました。1970年の新聞に掲載された広告を見ると「鎌倉山」の名前を使って分譲を行っており、ここに「鎌倉山」の範囲が拡張していることがうかがえます。
 また、鎌倉山周辺には「鎌倉山」という名称を用いた店舗が飲食店を中心に増えていきます。喫茶店や洋菓子店に多く用いられており、ローストビーフ専門店や料亭の名前にも使われています。さらには鎌倉山から西にあたる西鎌倉駅に近いエリアでも「鎌倉山」の名前を使った店舗が見受けられ、こちらでも「鎌倉山」の広がりが見受けられます。

 

「鎌倉山」と住民自治

 鎌倉山では戦前、友美会という住民の会があり、それを元にした住民自治・交流は太平洋戦争を越えて戦後も残っていました。そして住民の間には当地に対する強い愛着や誇りといったものが醸成され、住環境保護の原動力となっています。代表的なもの桜の保護や土地細分化の防止、一部地域の市街化区域編入の拒否でした。資料からは桜の伐採に抵抗した住民の様子や「鎌倉山住民を分断する」という理由で鎌倉山住宅地全体を市街化調整区域とする住民の姿を資料にみることができます。
 こうした住民による住環境保全・向上の運動は周辺の住宅地でもありました。それらは自治会が中心ではありましたが、土地の細分化防止や自然保護をはじめ、周辺の大規模開発行為への反対運動もありました。
 そして西鎌倉や鎌倉梶原山では、住環境の向上のためにバスの運行が希望されます。はじめは開発地の広い通りだけを走るバスについての要望でしたが、鎌倉梶原山住宅地では小型バス運行も要望されていきます。1984年からは町内会と京急の間で検討が行われ、途中有志による活動時期を乗り越えつつ、1995年からミニバス「ポニー号」(船50系統)が運行されます。この路線の大きな特徴が一部バス停でのデマンド運行で、2箇所のバス停でボタンが押されると経路を変更してバスを運行するというものでした。現在も船50系統は小型バスながらも多くの人が利用しており、利用が定着している印象を受けます。 

 
梶原山の住民が調査と請願を行った結果、京急バスが運行するようになった「ポニー号」のデマンドバス停です。ここでは到着5分前までにボタンを押すとバスがやってきます。

梶原山の住民が調査と請願を行った結果、京急バスが運行するようになった「ポニー号」のデマンドバス停です。ここでは到着5分前までにボタンを押すとバスがやってきます (撮影:鳴海行人・2017年)

 
写真の西鎌倉住宅街をはじめ、鎌倉山周辺の多くの自治会では住環境を守るための住民協定を制定しています

写真の西鎌倉住宅街をはじめ、鎌倉山周辺の多くの自治会では住環境を守るための住民協定を制定しています (撮影:かぜみな・2017年)

 

 さらに2000年には鎌倉市のオムニバスタウン指定を受けて、鎌倉駅西口から鎌倉梶原山分譲地に向かうミニバスも運行開始します。この施策で先ほど紹介した西鎌倉の南側にある「鎌倉山」分譲地に乗り入れるバスも「新鎌倉山線」として運行開始しています。
 こうした新しい動きもありながら、現在も活発な住民自治により「鎌倉山」ブランドおよびその周辺の住環境は守られています。

 

これからの鎌倉山

 住民のチカラで高級イメージを作り、住環境をよくしてきた鎌倉山。しかしこれからは西武グループや野村不動産が開発してきた住宅地を中心に住民の高齢化と人口減少が懸念されます。そういった社会状況を鑑み、住民自治と住環境やイメージの保全をいかに保っていくのでしょうか。時には地域に密着する企業と連携し、角度を変えた様々な取り組みが求められていきそうです。

(*1)京浜急行専用道路はのちに市道化されます。1984年に鎌倉市部分が、1989年に藤沢市部分がそれぞれ売却されています。
(*2)西武グループと対称的に自動車道事業に乗り出そうとしたのが東急グループです。渋谷から箱根までの自動車道事業を計画、これを東急ターンパイクと称し、1954年と1957年に一般自動車道事業免許を申請しています。当時、東急グループのリーダー五島慶太は自動車交通がこれからの主流になると考え、高速で自動車が走れる道路と高速バスを組み合わせ、自動車道の沿線開発(主に横浜・川崎市内)と通勤客の高速バスによる輸送も考えていました。そして鎌倉山の近くには「鎌倉口」出入口が計画されています。計画図を見ると、現在の藤沢から長谷を結ぶ道路と近い所に出入り口を作るつもりだったようで、もし自動車道が認可されていれば、鎌倉山に近い所に自動車道ができ、渋谷行きの高速バスが発着していた可能性があります。しかし、結果的1960年に小田原~箱根のみ認可が下りました(現在の箱根ターンパイク・2004年に売却)。その後、沿線開発構想は鉄道線を中心とした形に改められ、のちに多摩田園都市(現在の田園都市線沿線)計画となります。
(*3)野村ストアはその後も野村不動産分譲地を中心に最盛期には9~10店舗を展開しました。1983年には経営再建のため忠実屋傘下に入り「ナイス」と店名を改めます。その後はシヅオカヤ時代を経てダイエーグループとなり、現在はイオングループのマックスバリュやビッグ・エーとして4店舗(グルメシティ鎌倉店、グルメシティ成瀬台店、ビッグ・エー本郷台店、ビッグ・エー千城台店)が残っています。

参考文献など

不動健治(1971)「鎌倉山 叢談」鎌倉山風致保存会.
村岡智勝(1971)「湘南モノレール 設営の記録」湘南モノレール.
京浜急行電鉄株式会社社史編集班(1980)「京浜急行八十年史」京浜急行電鉄.
東急沿線新聞社(1982)「東急外史 顔に歴史あり」東急沿線新聞社.

商業界(1982)「日本スーパーマーケット名鑑 1983年版」商業界.
東京急行電鉄株式会社田園都市事業部(1988)「多摩田園都市 開発35年の記録」東京急行電鉄.

第一流通(1990)「スーパーマーケット・マップ名鑑. 1990 首都圏版」第一流通.
鎌倉市市史編さん委員会(1994)「鎌倉市史 近代通史編」吉川弘文館.
山本節子(1997)「西武王国 鎌倉」三一書房.
京浜急行電鉄(1999)「京浜急行百年史」京浜急行電鉄.
江ノ島電鉄株式会社開業100周年記念誌編纂室(2002)「江ノ電の100年」江ノ島電鉄.
西鎌倉自治会50周年記念事業専門部会(2016)「西鎌倉の五十年 西鎌倉住宅地自治会50周年記念誌」西鎌倉自治会
梶原山町内会50年史編纂委員会(2017)「梶原山町内会50周年記念誌 50年のあゆみ」梶原山町内会

東急電鉄KK道路課(1957)「東急ターンパイクについて-1-」,『道路』195,251-258頁
東急電鉄KK道路課(1957)「東急ターンパイクについて-2-」,『道路』196,289-293頁
赤松 加寿江.,片山 伸也,水沼 淑子ほか(2012)「昭和初期の別荘地開発と住宅地形成に関する研究 鎌倉山住宅地開発にみる住分化の継承と変容」,『住総研研究論文集』38,113-124頁

日経産業新聞(1977)「野村不、系列スーパー「野村ストア」の出店に力―分譲宅地の魅力高める」,『日経産業新聞』1977年3月29日号,12頁
日経流通新聞(1990)「忠実屋、「ナイス」業態転換―不採算店、靴店などに。」,『日経流通新聞』1990年7月10日号,1頁
日経流通新聞(1991)「忠実屋、子会社2社を統合―『自主独立』維持狙う」,『日経流通新聞』1991年8月29日号,15頁

湘南モノレールHP:http://www.shonan-monorail.co.jp/
野村不動産ホールディングスHP:https://www.nomura-re-hd.co.jp/
不動産の売買ならノムコムby野村不動産アーバンネット:https://www.nomu.com/

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鳴海 行人
matinote仕掛人・ライター・マネージャー(編集長) 90年生まれのまち探訪家。 地域を俯瞰的に見つつ、歴史を掘り下げて現在の姿への系譜を探りながら、まちを観察をしています。地誌・地方都市・総合交通体系・ロードサイド・観光・空間デザインなど様々な視点を駆使し、まちを読み解くことがひとつの楽しみです。