池袋から出発する東武東上線。行先には「成増」、「志木」、「川越市」、「森林公園」、「小川町」という行き先表示が並びます。中でも謎なのが、「森林公園」と「小川町」です。川越より北部に位置するこの2駅は全く場所の想像のつかないことから、筆者の中では長らく謎のエリアとなっていました。
この”謎”に満ちた東武東上線川越以遠エリアで池袋から1本で行ける一番遠くの駅が「小川町」です。10両編成がやってくるこの終着駅はいったいどんなまちなのでしょうか。
昔に栄えたまちらしい駅前の風景
東武東上線に乗ると、川越駅を出た時点で乗っていた人たちの多くは坂戸、東松山をはじめとした「まち」の駅で降りていき、車庫のある森林公園駅を過ぎると車内にはほとんど人がいなくなり、そのまま小川町駅に到着します。
小川町駅で昼間、1度に降りるのは50人~100人ほどでしょうか。半分がこの先の寄居方面へ、半分が改札口へ向かいます。
1番線に横付けされている改札口を抜けると、小さな駅前広場にタクシー・バス・送迎の自家用車が入り乱れて止まっています。おそらく昭和後期からあまり変わっていない光景なのでしょう。貴重な存在です。
駅前から正面に延びる通りも少しノスタルジックな雰囲気の商店街で、1960年~70年代的な空気を醸し出しています。そして、埼玉りそな銀行と埼玉県信用金庫の支店があり、地域の拠点だった歴史が伺えます。
商店街を抜けると、国道254号線に突き当たります。そこから東西へは、実に立派な建築物群が並んでいます。見ていると、元々は宿場町でもあり、商業拠点であったような気配がうかがえ、実に面白い街並みです。
さて、このような小川のまちの姿はどのようにして生まれたのでしょうか。
江戸期から明治期まで大いに栄えた和紙と素麺の里・小川
小川を中心とする地域は古来から租税や寺で利用するための和紙生産が行われていました。そして、大消費地江戸に最寄りの紙生産地であったこの地域では紙漉きが栄えます。小川の和紙は人気も高く、農閑期の製造がさかんでした。冬の晴れが多い日は天日干しの美しい和紙が並び「千両ぴっかり」と呼ばれていたそうです。
その後、明治期・大正期・昭和期にかけて和紙の生産は品種改良を重ねながらも続き、小川町や隣の東秩父村では多くの和紙が江戸(東京)並びに全国へと出荷されていきます。また、絹や素麺も有名で「小川素麺」の名は大正期まで関東一円に知れ渡っていたようです。
こうした名産品の集積地であった小川は八王子と上州を結ぶ道の宿場町となったとともに自然と市が立つようになり、盛んに商取引が行われます。この市の場所が先ほど紹介した国道254号線の街並みに当たるわけです。
市はかなりの賑わいがあったといい、江戸期には市場の権利をめぐって争いがあったことを示す資料が残っています。
市の賑わいは明治期になっても続き、現在の埼玉県が誕生したころには県内でも有数の人口集積地になっていました。一時は川越、熊谷、本庄、忍(行田)の次に「小川」の名前があるほど栄えていました。今では想像もつかないことです。そして埼玉には10しかなかった常設劇場のうち1つ「相生座」があり、銀行も2行(どちらも後に埼玉銀行)誕生したといいます。
このころ小川を訪れた田山花袋は「ところどころに林立した工場の煙突、豊かに渦巻き上がる夕炊の煙、そして思いがけないような賑やかな町」と書き残しています。
念願の鉄道乗り入れ
まず小川のまちに乗り入れたのは八高線でした。1920年の開通で、これにより鉄道による貨物の運搬が可能になります。とはいえ、八高線は東京都心と直通するものではなく、小川の人たちは東上鉄道の誘致運動を活発に行います。
東上鉄道は明治末期に計画されたもので、現在の東武東上線にあたります。計画時、東上鉄道は地形の関係から小川を経由せずにもっと東側を通る予定でした。これに危機感を覚えた小川の人々は活発な鉄道誘致を10年余り続けます。駅前広場の土地も確保し、根津嘉一郎をまちに招くなどの活動を行った結果、1923年、無事に小川に「小川町」駅が生まれました。
さらには1926年石灰を輸送するために浅野セメントが敷設した根古屋線もあり、貨物輸送が1960年代まで行われていました。
こうして川越や東京へダイレクトに結ばれる路線を得た小川町はそれまでの集積を維持したまま昭和期を越えて平成のいまにまちの姿を伝えていきます。
小川から生まれた商業
そして小川を語るうえで欠かせないのは「しまむら」と「ヤオコー」です。前者は今や全国に2000店舗を持つ衣料専門店チェーン、後者は埼玉を中心に154店舗を展開する食品スーパーチェーンです。
この2つのチェーンは小川の商店街を発祥としています。「しまむら」は「島村洋品店」、「ヤオコー」は「八百幸商店」として国道254号線沿いに店を構えていました。どちらも1950年代にセルフサービスを導入し、専門店として芯の通った独自の店づくりをすすめることで大きく業績を伸ばし、何店舗かは共同で出店していました。現在も店舗の形態や場所を変えながらも小川町内に展開しています。
この2チェーンの展開には小川町の土地柄は大きく関係しています。「チャレンジする。失敗したらすぐやめる。」これが小川の人々の性格でした。こうした空気は絹・和紙を背景にした活発な消費活動によって生まれる地力もさることながら、「しまむら」を作り上げた島村恒俊が東京で「商業界」のセミナーに出ていたように、東上線を通じて東京へ近かったことが大きな影響としてあったことは間違いありません。
現在の小川
現在の小川は住宅開発地がいくつかあり、さらに和紙と有機栽培で地域おこしを進めています。
住宅開発地は1980年代に造成され、5000人規模の東小川団地と1986年から開発された4000人規模のみどりが丘があり、バスも充実しています。その影響で東上線小川町駅利用者も15年で37万人(日平均1000人)増えています。現在は郊外住宅地として栄えています。
地域おこしについては和紙は「細川紙」がユネスコの無形文化遺産となっており、有機栽培は1つの農場が中心となって進めていっているものです。
東京から電車1本で行ける小川町。のんびりとした空気が漂い、街を歩いてみてもいたるところに過去の栄華が見られる素敵な場所です。ぜひ、昔の地域商業の賑わいの名残を感じたり、のどかな空気を味わいに訪れてみてはいかがでしょうか。
参考文献
新田文子(2015)「小川町の歴史あれこれ : 50話のヒストリー」朝日新聞サービスアンカーASA小川町.
小川町(2005)「小川町のあゆみ」小川町.
小川町(2003)「小川町の歴史. 通史編 下巻」小川町.
月刊公論(2015)「観光立国をめざして 埼玉県小川町 細川紙 ユネスコ無形文化遺産」,『月刊公論』48-2,66-68頁
下口 ニナ・稲泉 博己・大室 健治(2015)「有機農業による地域振興策に関わる制度的・組織的支援の実際 : 有機農業推進法制定後の埼玉県小川町の事例から」,『開発学研究』26-2,1-11頁
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