【商業】埼玉県北の名物百貨店!? 地域と共に歩んできた八木橋百貨店

 埼玉県北部にある熊谷市。熊谷駅から1.2kmほど離れた中山道沿いに8階建ての大きな百貨店「八木橋」があります。
 20万人弱のまちにあり、市街地には大型モールがあるにも関わらず、清潔で活気のある店内には驚かされます。今回はそんな元気な百貨店を取り上げます。

 
熊谷市中心街の地図

熊谷市中心街の地図 (OpenStreetMapを元に作成) © OpenStreetMap contributors

 

ある週末の「八木橋百貨店」

 国道17号線から八木橋の駐車場へ入ろうとすると、いくつかの駐車場は満車で、警備員の誘導で少し離れたところにある駐車場に誘導されます。
 車を停めて店舗に向かう間にも続々とやってくる車を見ながら、店舗に入ると建物を突き抜けるように走る通りと銘菓店が目立ちます。この通路は旧中山道で、現在の建物が建設された時に取り入れられたものです。

 
八木橋百貨店の店頭にある「旧中山道碑」

八木橋百貨店の店頭にある「旧中山道碑」 (写真:鳴海行人・2016年)

 

 上のフロアへ行くと地方百貨店らしい「格式」というよりはもう少し大衆寄りかつオシャレな内装とブランドが目立ちます。もちろん高級ブランド品もありますが、同じフロアにコロンビア、ミニプラ、コムサイムズといった少し年齢層も若く大衆向けのブランドが入居しています。
 築30年近く経過した建物ですが、全体的に新しく清潔な印象を受けます。定期的にしっかりとしたリニューアルが行われているようです。
 屋上には子供が遊ぶスペースがあり、遊具で多くの子供が遊んでいました。子連れ世代もやってくることができる百貨店としても定着しているようです。
 こうして地域の支持を受けている「八木橋百貨店」。周辺環境が厳しい中でなぜここまでの活気があるのか、歴史からひも解いてみたいと思います。

 
国道17号線から見た「八木橋百貨店」

国道17号線から見た「八木橋百貨店」。現在の建物は1989年に建てられたもので、8階には多目的ホールを設けている (写真:鳴海行人・2016年)

 

行田の呉服店の支店から始まった歴史

 八木橋百貨店は行田にあった呉服屋山木屋・八木橋の熊谷支店開店に端を発します。1897年、初代八木橋本次郎が商才を見込まれてのれん分けを受けて、中山道沿いに店を出したものでした。
 当時、熊谷は製糸・繊維産業で栄えていたために呉服店も多くありました。しかし、八木橋は現金販売と良品廉価、そしてソフト面を中心に顧客本位の商売を行いました。こうして広範囲に顧客を確保し、問屋には月末現金払いで信用を得ました。こうして20年ほどしたころには熊谷で1番繁盛している呉服店で、配達範囲は秩父・本庄・上尾・館林・太田とかなり広範囲にわたりました。
 このころから年2回の大売り出しが始まり、その時はお祭り騒ぎになっていたといいます。店の周りには屋台が並び、店員と問屋の人が協力して押し寄せる客を捌いていました。

百貨店への足掛かり

 昭和期に入り、次第に洋服が流行るようになりました。八木橋ではこの流れを見のがさず、1933年に洋品部を新設します。1937年には店舗が木造3階建てとなり、着々と百貨店化していきました。
 しかし、順調な経営だった八木橋に戦災が降りかかります。1945年8月14日、アメリカ軍最後の空襲で店は灰塵と化します。
 翌年に営業を再開しますが、人々は生活に精一杯で呉服は入荷もしなければ売れることもありませんでした。そこで近くに進駐してきたアメリカ軍相手の土産物屋を併設します。こうして八木橋で雑貨類を取り扱うようになりました。さらに1948年に本格的な店舗を建築した際には生活用品を売ることで消費者とのつながりを深めていきます。
 1956年に施行された百貨店法に基づき、いち早く申請を出した八木橋は埼玉県第一号の百貨店となりました。その後は店舗拡張を続け、1966年には鉄筋5階建て、エスカレーター・エレベーター付きになっていました。また、この年には東郷青児の絵を購入し、店内に掲示します。そこには文化に対する思想と顧客への還元の思想を見て取ることができます。

危機感を元にした結束と店舗拡張

 1970年代に大型スーパーやチェーン店の進出が激化してくると、八木橋は社内のコミュニケーション強化と店舗の大拡張を行います。1971年に鉄筋8階建ての建物を建築するとともに、社内ではもう一度百貨店の存在意義と顧客に提供できるものを考え、それを新しい建物の設計に反映させました。また、社員の労働組合も結成され、経営陣は社内で経営状況を共有する取り組みを始めました。
 こうして社内一丸となって顧客本位のサービスを主に店員のレベルアップで行っていきます。そして、1979年のダイエー進出を乗り越え、このときは2年連続の増収・増益でした。この時、八木橋社内では熊谷駅前への移転も検討されたといいますが、地元商店街との連携も考えて、元の地にとどまる道を選びました。
 1989年にはさらなる店舗拡張に乗り出します。狙いとしてはゆとりや楽しさを店に取り入れることで大宮や浦和、ひいては東京に行かなくてもいい店を作ることがありました。
 この時八木橋は自社主導で再開発事業として店舗建築を進め、店の前にある旧中山道を店の中に取り入れました。先述の通り、現在も旧中山道にあたる通りが1階フロア内を通っています。
 この大拡張は年商の7割にあたる120億円の投資となり、さらには駅前に商業ビル「アズ熊谷」が開業するなどあって2年ほど苦境に陥ります。それでも若者層の取り込み成功もあって1993年には最高年商の245億円を売り上げました。また、1997年には100周年を迎え、文化催事を多く行い、チケットが完売するものがあったといいます。

 
熊谷駅の東にある「ニットーモール」。

熊谷駅の東にある「ニットーモール」。以前はダイエーがテナントとして入居していたが、経営再建などの事情で撤退した (写真:鳴海行人・2016年)

 

消費マインドの変化に翻弄される地域密着の百貨店

 苦境の1990年代前半を乗り越え、1990年代後半は売上も伸び順調な経営でした。しかし、2000年代には大幅な売り込みの落ち込みを経験することになります。2001年度には219億円あった売り上げは15年で75億円も減り、144億円になりました。
 2000年には至近距離にマイカルが熊谷サティ(現:イオン熊谷店)を出店し、2010年代にかけては深谷・太田・羽生をはじめ周辺地域にショッピングモールの展開が進みました。そんな中で売上高も落ち込んでいきます。内装リニューアル、催事の開催で生き残りを図っていきますが、まだまだ道半ばのようです。
 地域密着の取り組みも続けています。2008年から行われている「暑さ」を売りにした熊谷市のシティプロモーションでは大きな気温計を八木橋百貨店正面入口に設置し、毎年大きな話題となっています。
 しかし、協力関係にあった上熊谷駅周辺の商店街は衰退し、30店舗程度までに減ってしまっています。そのため、まるで市街地の「離れ小島」のようになってしまいました。
 こうした厳しい状況の中ですが、冒頭に書いた通り、八木橋百貨店の活気はまだまだ健在です。今後、「離れ小島」のようになってしまった八木橋百貨店がどのような新しい地方百貨店の姿を打ち出していくのか。地域の消費者との関係はどのように変化していくのか。いまの時代らしい百貨店業の存在意義として見せていくことが八木橋百貨店には求められていきそうです。

 
八木橋百貨店の前を走る国道17号線。

八木橋百貨店の前を走る国道17号線。銀行の集積からこちらが元々熊谷の市街地であったことがうかがえる。今後はどう街並みが変化するのだろうか (写真:鳴海行人・2016年)

 

 

参考文献

森喬(1971)「原点思考への提言――〈熊谷・八木橋百貨店の実例に見る〉」,『商店界』52-8,121-126頁
近代建築(1971)「八木橋デパート」,『近代建築』25-6,116-118頁
八木橋百貨店(1987)「標 株式会社八木橋九十年史」八木橋百貨店.
八木橋宏純.(1998)「トップインタビュー 顧客第一主義を掲げ百貨店業の未来を築く」,『あさひ銀総研レポート』7-1,25-28頁
菊池仁(1999)「中心市街地活性化の担い手 「地方有力百貨店」の21世紀戦略(10)八木橋(熊谷市) 」,『商業界』52-5,124-128頁
日本経済新聞(1986)「八木橋、本店周辺を再開発、都市型商業ビルを建設―熊谷市中心街整備の第1号。」,『日本経済新聞』,1986年9月5日号 地方経済面 首都圏B,5頁
日経流通新聞(1991)「八木橋―大幅増床で殻破る、商品力強化、外商も拡大(地方流通試練のとき)」,『日経流通新聞』,1991年11月28日号,8頁
日本経済新聞(1996)「八木橋社長八木橋宏純氏――創業の地にこだわり、百貨店から文化発信(彩の経済人)」,『日本経済新聞』,1996年8月7日号 地方経済面 埼玉,40頁
日経MJ(2002)「百貨店、駅前店が好調――商店街店舗は苦戦(新ビッグストア調査から)」,『日経MJ』,2002年8月27日号,9頁
日経MJ(2008)「埼玉県熊谷市――「あついぞ!」前面にPR(わきだす地域パワー)」,『日経MJ』,2008年8月18日号,13頁

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鳴海 行人
matinote仕掛人・ライター・マネージャー(編集長) 90年生まれのまち探訪家。 地域を俯瞰的に見つつ、歴史を掘り下げて現在の姿への系譜を探りながら、まちを観察をしています。地誌・地方都市・総合交通体系・ロードサイド・観光・空間デザインなど様々な視点を駆使し、まちを読み解くことがひとつの楽しみです。