【まちのすがた】本格的「ニュータウン」は八千代台で誕生した!?―大規模住宅開発都市・八千代市の姿:その2

 日本において人口が爆発的に伸びた時代、コンクリートの集合住宅、いわゆる団地が全国に作られていきました。これをけん引したのが1955年に設立された日本住宅公団や自治体によって設立された住宅協会・住宅供給公社でした。日本住宅公団は1956年に大阪市に初の団地、金岡団地を建設します。
 そのころ、本格的な一戸建ての住宅団地と一部の集合住宅からなる新しい「まち」が千葉県で建設されていました。のちに「住宅団地発祥の地」と言われる八千代台団地です。土地の住宅地としての利用だけではなく、公園の配置や店舗の配置などまちの設計から行ったいわゆる「ニュータウン」としては恐らく全国初なのではないでしょうか。
 今回は八千代台の歴史を紐解きながら、まちづくりと一体化した住宅地開発の端緒に触れていきたいと思います。

 
八千代台駅西口のバス乗り場前にある「住宅団地発祥の地」の碑

八千代台駅西口のバス乗り場前にある「住宅団地発祥の地」の碑 (撮影:鳴海行人・2017年)

 

小さな宿場町と農村だった八千代市域

 城下町や門前町といったものと違い、市内各地で行われた住宅開発で発展した八千代市は中心を定義することが難しいまちのように思えます。しかし、意外なことに歴史から考えると中心地はシンプルにわかります。それは、現在の八千代市役所周辺です。

 
八千代台や団地を中心とした八千代市内の地図

八千代台や団地を中心とした八千代市内の地図   (OpenStreetMapを元に作成) © OpenStreetMap contributors

 

 江戸期、八千代市域を通る主な交通は佐倉街道(現在の成田街道・国道296号線)でした。譜代大名の治める佐倉へと通じるこの街道は、船橋で千葉街道と別れて八千代を通ると佐倉へ達します。こう書くと地方の城下町へ通じるただの街道なのですが、佐倉の西北には成田がありました。現在もそうであるように、成田山への参詣客は江戸期から多く、佐倉街道はそれなりににぎわったといいます。
 そんな佐倉街道の八千代市内にある宿場が大和田宿でした。もちろん、五街道の宿場町ほどではなかったそうですが、1日あたり50人ほどの旅人が宿泊していたと伝えられています。現在も佐倉から船橋へ短絡する国道296号線の交通量はとても多く、よく込み合っています。
 大和田宿を除いた八千代市内は西に小金牧と呼ばれる幕府が使う馬を育てる牧場があり、北は印旛沼に隣接した湿地帯でした。江戸期には何度も印旛沼の干拓が試みられますが、いずれも失敗し、昭和に入ってから大和田排水機場ができるのを待たなければなりませんでした。
 さて、明治期に入ると小金牧は存在意義を失い、代わりに軍事演習場へと変わっていきます。現在も一部は自衛隊の基地として名残を残していますが、当時は一帯が大きな軍事演習場となっていました。また、沼の近くでも軍事演習場でもないところは台地だったために耕作地や山林となっていました。
 大正期には大和田宿の中心にあたる大和田村の南側に京成電鉄の「大和田駅」が開業します。普通列車がときどきやってきて、朝は行商の女性を乗せて東京へ向かうというのどかなものだったようです。
 このように、太平洋戦争終結直後までは大和田宿(のちに大和田村を経て大和田町)を中心とした純農村地帯でした。

 
大和田宿のあたりを通る国道296号線の様子です。船橋から八千代や佐倉西部へ向かうメインの道路にも関わらず、現在も1車線道路で込み合います

大和田宿のあたりを通る国道296号線の様子です。船橋から八千代や佐倉西部へ向かうメインの道路にも関わらず、現在も1車線道路で込み合います (撮影:鳴海行人・2017年)

 
京成大和田駅の様子です。以前はここから東京方面へ行商に向かう人の姿が見られ、ホームには荷物置きの椅子があったといいます

京成大和田駅の様子です。以前はここから東京方面へ行商に向かう人の姿が見られ、ホームには荷物置きの椅子があったといいます (撮影:鳴海行人・2017年)

 
 

八千代町の誕生、そして住宅開発のおこり

 さて、1950年代中ごろに進められた昭和の大合併により、大和田町周辺の地域も合併することとなります。まずは大和田町と西北の睦村が合併します。
 その合併で新町名が公募されることになります。新生、双葉、住吉といったたくさんの候補から選ばれたのは「八千代」でした。これは選定を行った大和田町・睦村の委員により「千代に八千代に」と永く栄えるめでたい名称であったために採用されたそうです。
 こうして1954年1月に「八千代町」が誕生しました。
 その頃、東京を中心に住宅需要は大いに高まりを見せていました。千葉でも京葉工業地域の整備推進ということもあり、住宅整備の必要に駆られていました。そこで白羽の矢が立てられたのが、八千代町南部にある陸軍演習場の跡地でした。ここは大蔵省から民間に払い下げが行われており、10万坪ほどの土地がまとまって空いていました。そのため、千葉県では千葉県住宅協会を設立し、1954年から八千代町南部で住宅造成を始めます。公社設立にあたっては、京成電鉄や東武鉄道の資本参加があり、八千代の開発地には京成電鉄の新駅が設けられることになっていました。

ベッドタウン・八千代台の誕生

 1956年に千葉県住宅協会(現在の千葉県住宅供給公社)が中心になって造成した住宅地にいよいよ人々が住み始めます。公募により「八千代台」と名付けられたこの住宅地には東京から多くの人々が移り住んできました。当時、分譲された住宅は木造の10~15坪ほどの住宅で2K、2DK、2LDK、3DKのものでした。また、日本住宅公団(現在の都市再生機構(UR))が八千代台の一部にテラスハウス型の団地を建築し、分譲しています。

 
日本住宅公団の手で造成された八千代台団地です。テラスハウスタイプの住宅が並んでいます。ちなみに八千代台団地の大半を占めた千葉県住宅協会の分譲地には往時の建物はほとんど残っていません

日本住宅公団の手で造成された八千代台団地です。テラスハウスタイプの住宅が並んでいます。ちなみに八千代台団地の大半を占めた千葉県住宅協会の分譲地には往時の建物はほとんど残っていません (撮影:鳴海行人・2017年)

 

 こうしてまちびらきした八千代台には京成電鉄の新駅もでき、どんどんまちが出来上がっていきます。京成電鉄の線路の北側に千葉県住宅協会のまちがあったのに対し、南側や東側は民間による住宅開発が行われ、八千代町は爆発的に人口が増えていきました。しかし、開発地の中には基本的なインフラも未整備のまま分譲された土地もあったといい、ある地域では電気を引いてくるために開発業者から資金を得る運動を行ったという記録もあります。
 乱開発ともいえる状況に歯止めをかけるため、八千代町では1959年に都市計画法に基づく申請を行います。1954年の合併時には農村として開発していく予定だった八千代町がだんだんと東京のベッドタウンとしてのまちづくりに切り替わっていきました。
 そして1965年に行われた国勢調査では人口が3万5千人を越えました。そこで八千代町では今後のまちの発展を踏まえて福祉の向上やスマートなイメージ醸成を狙い、1967年に市制を施行しました。こうして「八千代市」が誕生します。
 八千代市制施行後は日本住宅公団の手でいくつもの住宅開発が行われます。いずれも大規模なもので、1968年から1972年まで毎年10%以上の人口増加を続け、1973年にはついに人口が10万人を突破しました。また、団地開発と併せて京成電鉄の勝田台駅も開業し、八千代台駅と共に京成電鉄内でも有数の乗降客を誇る駅に成長していきました。

 
現在の八千代台駅の様子です。写真左側の建物は旧八千代デパート(現:アピア)です

現在の八千代台駅の様子です。写真左側の建物は旧八千代デパート(現:アピアビル)です (撮影:鳴海行人・2017年)

 

八千代台の発展と京成電鉄、そしてまちづくりは次の段階へ

 八千代市内で住宅開発が行われる中、八千代台は「まち」としてさらに発展していきます。1962年にはまず八千代台駅の西側に「八千代デパート」ができます。1974年には8階建ての建物になり、現在ではアピアビルとして本屋や生鮮食料品店などを抱えています。そして1977年には駅前に京成系の商業施設「ユアエルム京成」が開業します。核店舗として長崎屋が誘致され、衣料品や専門店にも力が入った商業施設となりました。1993年には床面積が倍になり、現在も周辺の大型商業施設との競合がありながらもにぎわっています。

 
ユアエルム京成・八千代台店

ユアエルム京成 八千代台店 (撮影:鳴海行人・2017年)

 

 こうして発展していった八千代台・そして八千代市ですが、人口の爆発的な伸びの結果として通勤・通学の足である京成電鉄の混雑問題に悩まされます。八千代台駅は開業当初1日300人弱だった乗降客が20年で6万人を超えるようになりました。その結果として1970年代のラッシュ時間帯にはホームに1万人を超える乗客が押し寄せることになり、都心へ向かう電車も激しい混雑となっていました。
 そのため京成電鉄では1971年には八千代台駅から東中山駅の区間特急を新設し、急ピッチで1編成あたりの両数を4両編成から8両編成にするための工事を進めていきます。一方、八千代市では京成本線の増結だけでは問題の抜本的解決にならないと考えていました。そこで1970年に千葉県や八千代市と似たような鉄道輸送の問題を抱える県内の自治体と共に「千葉県内陸鉄道建設促進期成同盟」を設立します。
 その後運輸省(当時)への陳情を行い、ついに1972年、運輸省の諮問機関である都市交通審議会が地下鉄5号線(東西線)の船橋市・八千代市への延伸を答申しました。そして1974年3月には営団地下鉄が東西線延伸の免許申請を行いました。これと呼応するように、八千代市は都市計画の策定を急ぐことで営団東西線延伸部の建設を急ぎました。

 こうして、八千代のまちづくりは次の段階へと進んでいくことになります。

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【まちのすがた】鉄道建設と団地の多様化―大規模住宅開発都市・八千代市の姿:その3

参考文献

友納武人(1981)「疾風怒濤  県政二十年のあゆみ」社会保険新報社.
八千代台東町会創立30周年記念誌編集委員会 (1988)「かがやき 手づくりの町の記録」八千代台東町会創立30周年記念誌編集委員会.
八千代市(2008)「八千代市の歴史 通史編 下」八千代市.
京成電鉄(2009)「京成電鉄100年のあゆみ」京成電鉄.
望月茂雄(1958)「八千代台団地」,『住宅金融月報』83,2-
7頁
望月茂雄(1958)「ニュータウンの誕生」,『科学朝日』18(3),9-13頁
日本ショッピングセンター協会(1993)「”ショッピングパーク”から”アメニティパーク”へ「ユアエルム八千代台店」 」,『ショッピングセンター』239,47-50頁

山本鉱太郎(1999)「文化の香高い団地都市八千代」38,43-47頁
京葉銀行(2013)「千葉が誇る日本一 第4回 住宅団地発祥の地(八千代台団地)」京葉銀行.(2017年9月28日確認)
鎌田一夫(2014)「戦後郊外開発のトップランナー―八千代台」,『建築とまちづくり』435,31-33頁
日本経済新聞(2003)「ユアエルム京成、八千代台店に水族館。」,『日本経済新聞』2003年2月19日号 地方経済面 茨城,41頁
八千代市:http://www.city.yachiyo.chiba.jp/(2017年9月28日確認)

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鳴海 行人
matinote仕掛人・ライター・マネージャー(編集長) 90年生まれのまち探訪家。 地域を俯瞰的に見つつ、歴史を掘り下げて現在の姿への系譜を探りながら、まちを観察をしています。地誌・地方都市・総合交通体系・ロードサイド・観光・空間デザインなど様々な視点を駆使し、まちを読み解くことがひとつの楽しみです。