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【まちのすがた】ケヤキ並木と府中のむかし話―大國魂神社・ケヤキ並木と府中宿をめぐる

 東京都心と八王子市を結ぶ京王線のちょうど中間地点に位置する東京都府中市。沿線でも屈指の規模を誇る、人口26万人の都市です。前回はそんなまちの玄関口である京王線府中駅南口の市街地再開発事業について取り上げました。
 しかし府中にはそれだけではない、府中について語るうえで絶対に外せないものがあります。それが「大國魂神社」、そしてその参道である「馬場大門のケヤキ並木」です。

ケヤキ並木のナゾ

 府中駅を降りて、前回取り上げた「ル・シーニュ」や「伊勢丹」の間のペデストリアンデッキ(府中スカイナード)を歩くと、ちょうど駅からみて建物の裏手に当たる場所に、南北に走る立派な並木道があります。

 この道が「馬場大門けやき並木通り」で、南北約600mに渡る並木道です。南端は大國魂神社大鳥居に接しており、大國魂神社の参道として機能している道路です。「馬場大門のケヤキ並木」は国指定の天然記念物に指定されており、ケヤキ並木として、天然記念物の中では唯一指定されている並木なのだそうです。

 

府中駅周辺の位置関係を示す。青楕円が府中三町と呼ばれた府中宿の宿場((OpenStreetMapを元にかぜみな作成) © OpenStreetMap contributors

 

 府中を代表する景観のひとつとして知られているケヤキ並木ですが、その由緒は意外にもはっきりとしていません。それは、大國魂神社(当時は六所宮と呼んだ)が何度も火事に見舞われてきた歴史があり、残っている史料は江戸時代以降のものばかりであるからです。

 ケヤキ並木の由緒について、通説として知られるのは、11世紀に源頼義と義家親子が前九年の役で東北遠征へ向かう折に、六所宮に立ち寄って戦勝祈願をしたところ、東北地方を平定することができたので、凱旋の際にお礼として苗木千本を寄附したのがはじまりで、後に大坂の陣に勝った徳川家康が彼らに倣って補植をしたという説です。
 しかし、六所宮の神主である猿渡盛章は、自らが1828(文政11)年に執筆した社伝「新撰総社伝紀考證」に、「久しく伝わっているが、その証拠を他の書で見たことはない」が「古い伝えにしたがってここに書いておく」と書いているなど、その真偽は定かではありません。

 

ケヤキ並木の延長線上にある大國魂神社。武蔵国の6つの神社を合わせて祀ったことからことから、「六所宮」と呼ばれた(撮影:かぜみな・2017年)

 

 そもそも府中は7世紀ごろより、武蔵国の国府が置かれていた場所としての歴史があることから、国府の道路として整備されたときから並木道であったとする説もあります。中心となる官庁地域(国衙)は大國魂神社の東側に置かれ,、そこから北方向へ、つまり馬場大門と並行する形で現在の国分寺市の地名の由来となった、武蔵国分寺へとつながる道が整備されていたことも近年の調査で明らかになっています。
 さらに旧甲州街道のラインが、国衙の区域北側に沿う古代からの東西道路であることも判明し、府中にも平城京や平安京のような碁盤の目構造の街路が整備されていた可能性が出てきています。このため、現在のけやき並木通りは、その1本として整備されたのではないかという説も考えられるようです。都の朱雀大路には街路樹が設置されていたことをうかがわせる記録もあり、国府として栄えていた時期にはすでにケヤキ並木が存在したのではないかと推測されています。

 そのほか年代がわかる史料で初出となることから、寛文年間の大火復興の際にできた説など、そのはじまりに関してはいくつかの説がありますが、少なくとも寛文年間には並木道が存在したことだけは確かのようです。

 

駅前の都市的な景観から一変する「馬場大門のケヤキ並木」。写真奥に大國魂神社が鎮座する(撮影:かぜみな・2017年)

 

 また「馬場大門」という通りの古称の由来は、ケヤキ並木の通説と同様、徳川家康にまつわるものです。中世、府中では馬を売買する市が立ち、良質な馬を生産することで知られた武蔵国の、国府で開かれる馬市として権威あるものとされていました。

 徳川家康は前述した大坂の陣(関ヶ原の戦いとする説もある)の際、府中の馬市で手に入れた馬で戦いに勝ったこともあり、そのお礼として六所宮に馬場を寄附し、馬市の法を定めました。側道に当たる西馬場、東馬場で市が立つようになり、これが「馬場大門」の由来とされています。

ケヤキ並木と京王線

 その後ケヤキ並木をとりまく環境が大きく変わるのは明治時代です。それまで、ケヤキ並木は大國魂神社(明治維新により六所宮から改名)の所有地でした。1871(明治4)年に、寺社領も境内地を除いて政府に上納することとなり、ケヤキ並木を含む大国魂神社の土地は国有地となりました。
 国有地化によってケヤキ並木は「参道」から「道路」としての性格の方が大きくなっていき、府中の大祭「くらやみ祭」に、府中三町(甲州街道の府中宿における3つの宿場で新宿・番場・本町を指す)と八幡宿(新宿の東側の地区)が参加するようになるなど、神社やケヤキ並木とまちとの垣根は低くなっていきました。

 

新宿地区に残る「新宿公園」。周囲は再開発区域で、マンションが林立している(撮影:かぜみな。2017年)

 

 そういった中で、1889(明治22)年、甲武鉄道(現在のJR中央本線)が開通し、国分寺駅が開業します。これにより甲州街道を利用して東京へ向かっていた人々が、国分寺駅へ向かって、そこから列車で東京へ向かうようになりました。そのルートとして馬場大門が活用されるようになり、府中と国分寺の間には乗合馬車も走るようになります。
 乗合馬車の開通に関してはこんな逸話があります。乗合馬車を通すためには、馬場大門の北側の道を拡幅する必要があったのですが、当時の府中町執行部は、その費用をすべて府中側が負担することを国分寺村に密約していました。
 交通の主役が鉄道に代わろうとしている時代に、甲武鉄道から取り残された府中の焦りが見て取れるエピソードと言えます。京王線が開通した現在でも、府中駅と国分寺駅南口を結ぶ路線バスは、都内でも屈指の運行本数を誇り、府中と国分寺を結ぶルートの重要性は、今も昔も変わらないのかも知れません。

 鉄道を待ち望んでいた府中も、1916(大正5)年、京王電気軌道(京王線)の開通によってその悲願が達成されることになります。当時の京王線は府中どまりで、そこから西側は京王の関連会社である玉南電気鉄道によって建設が進められました。これは当時の京王線が軌道法という法律に準拠して建設されていたのに対し、新たに設けられた地方鉄道法に準拠した路線とすることで、国から補助金を受け取る算段で、別会社による建設を選択したのです。府中以遠は1925(大正14)年に開業しましたが、結局補助金を受け取ることは叶わず、翌年に京王と玉南は合併しました。
 会社こそ合併したものの、府中以東は軌道法に準拠した1372mm軌間、府中以西は地方鉄道法に準拠した1067mm軌間と直通運転ができない状況になっていたこともあり、乗客は府中での乗り換えが必要だったといいます。しかしわざわざ違う規格で残しておく理由もなく、1927年に軌間を1372mmに統合する形で直通運転を開始します。

 

国指定天然記念物であることを示す石碑。背景は京王線の高架で、1993年に線路を高架に上げたことで踏切が廃止となった(撮影:かぜみな・2017年)

 

 この両線の乗り換えに関して、馬場大門を挟んで駅が設置され、直通運転が開始された際にはじめて馬場大門を横断する踏切が設置されたと長い間認識されていましたが、近年異なる説が浮上してきています。新たに見つかった史料によれば、玉南線の府中駅も京王線側にあり、つまり玉南電気鉄道が開業した時点で、馬場大門を横切る踏切が設置されていたことになります。確かに、京王線の直通運転が始まったときに、目立った反対運動などは見られませんでした。裏を返せば、その時にはすでに踏切が存在したからと解釈することもできそうです。

 いずれにせよ、府中に鉄道がやってきたことによって、ケヤキ並木に踏切が出現し、並木が分断されたのは事実でした。以降、ケヤキ並木は多くの交通政策に翻弄されていくことになります。一方で、京王線の開通によって従来の市街地である甲州街道(現在の旧甲州街道)沿いや大國魂神社と府中駅を結ぶ通りとして、馬場大門は皮肉ながらも人の往来が盛んになる結果となりました。

ケヤキ並木の保護活動から現在に至るまで

 20世紀に入り、美術品や名所旧跡等を「保存」すべきという国家的な機運の高まりもあり、大正時代には郷土意識の高揚とセットで、地域レベルにまでその機運が広がりを見せました。府中とて例外ではなく、1913年に設立された府中町青年会を中心として様々な活動が展開されました。
 青年会の活動実績の一つとして、1916年には「国民新聞」紙上で行われた「理想的郊外生活地の募集」という人気投票があります。青年会が町民に投票を呼びかけ、千葉の市川と争った結果、一位を獲得したのです。この際にケヤキ並木についても取り上げられ、「府中の町の誇りとすべき」で「広野に叫ぶ巨人のよう」と形容されています。また「馬場大門のケヤキ並木」は1924年に、国によって天然記念物に指定され、ケヤキ並木は郷土意識の醸成に大いに寄与していきます。

 そういった動きの中で、1936年には新聞記者である宇津木雅一郎という市民の手によって「欅並木会」が設立されます。これは市民によるケヤキ並木にかかわる活動のさきがけとされており、彼は1942年にケヤキ並木の調査報告書を作り、その中で武蔵野の乱開発を心配し、並木保護の目下の急務はトラックの往来をやめることだと述べています。

 戦後の1950年代には、京王線の北側で新たに計画された甲州街道バイパスの路線変更嘆願も行っています。もともと甲州街道は馬場大門の南端、大國魂神社の北端を東西に走っており、近世はこの道路を中心に先述した番場、新宿の宿場が設置されていました。しかしそれゆえに道路の拡幅はしづらく、クルマ社会の到来に伴って、府中の市街地を回避するバイパスの建設が持ち上がったのです。

 

甲州街道とけやき並木通りの交差点。バスの停車している場所が1956年に開通した甲州街道の新道(撮影:かぜみな・2017年)

 


 このバイパスは京王線の北側で馬場大門を横断する計画だったため、ケヤキ並木が再び分断されることを危惧して嘆願がなされました。この嘆願は受け入れられず、1956年にバイパスが完成、現在の国道20号線となり、従来の甲州街道は旧甲州街道として国道から降格されることとなります。この路線変更によってケヤキ並木が分断されたばかりではなく、交通量そのものも増加したと言います。

 しかし彼らを含む欅並木会の活動は、市民のケヤキ並木に対する関心の持ち方や、行政の姿勢に大きな影響を与えました。1954年の府中市が市制施行し、1956年の文化財専門委員会が発足したのに伴い、欅並木会のメンバーが多く参加することとなり、会の活動は自然な形で府中市へと継承されていくことになりました。
 1964年にはけやき並木通りのうち、新旧甲州街道の間が一方通行化されます。その後、1974~1975年に通り西側の並木を、土地買収の上で拡幅して旧甲州街道との交差点まで延伸、東側の並木も、前回取り上げた府中駅南口第二地区再開発に合わせる形で延伸を行い、現在の形が完成しました。

並木道にみる「まちに溶け込む天然記念物」のすがた

 府中駅南口の再開発にあたっては、ケヤキ並木に隣接する第一地区と第二地区が、ケヤキ並木側の建物の高さを下げ、建築物をセットバックするという方針が取られ、これによりけやき並木通りの歩道と一体化する形でオープンスペースが設けられ、再開発ビルが並木に上手に溶け込み、緑豊かな、気持ちの良い空間が構成されています。

 

府中駅南口第二地区再開発の「フォーリス」とケヤキ並木(撮影:かぜみな・2016年)

 

 また府中駅南口第一地区(ル・シーニュ)の再開発に関しては、建設中の間利用する仮設店舗の設置場所としてけやき並木通りの空間が利用されました。天然記念物にはそぐわない殺風景なプレハブが立ち並ぶこととなりましたが、府中のまちとけやき並木の、フランクな関係性が見て取れるようです。
 一方で旧甲州街道沿線にも、かつての旅籠の名残と思われるビジネスホテルや高札場の跡、酒蔵などが残っており、近世の宿場町の雰囲気をわずかながらに伝えています。

 

高札場の跡が残る旧甲州街道と府中街道の「府中市役所前」交差点(撮影:かぜみな・2017年)

 


 府中は駅前の再開発を40年かけて実現させる一方で、ケヤキ並木や神社、そして近世の記憶が守られて、まちのシンボルとなっているその2面性が魅力に感じられます。「守るべきもの」と「普段のくらしや経済活動」との両立の一つの答えが、府中にはあるように思います。この「気持ちの良い同居」を感じに、府中を訪ねてみてはいかがでしょうか。

参考文献

府中市HP:https://www.city.fuchu.tokyo.jp/index.html(2017年9月13日最終閲覧)
大國魂神社HP:https://www.ookunitamajinja.or.jp/(2017年9月13日最終閲覧)
国指定文化財等データベース:http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/index_pc.html(2017年9月13日)
府中文化振興財団府中市郷土の森博物館(2005)「馬場大門のケヤキ並木:国指定天然記念物」
村松功(2012)「京王電鉄まるごと探見 100年の歴史・車両・路線・駅」
ふるさと府中歴史館配布資料
日本経済新聞「府中駅巡る説覆す史料 京王線と玉南鉄道の両駅、実は隣接していた?」2016年8月26日付:https://www.nikkei.com/article/DGKKZO06504340V20C16A8L83000/(2017年9月14日最終閲覧)

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渦森 うずめ

都市という現実の中に漏れ出す夢や理想を商業空間に見出して遊んでいます。逆にコンテンツという夢や理想から現実を救い上げるのもすき。つまりは理想と現実を渡り歩く放浪者(?)。消えそうなファーストフードチェーン「サンテオレ」を勝手に応援中。