前回は、7月に行われた東京都の「時差Biz」の様子とその意義についてお届けしました。実は、「時差通勤」は相当に歴史の古い施策です。常に通勤ラッシュの緩和策として実施されてきましたが、時代が下るとともにその位置づけは変化しています。今回は、過去から現在に至るまでの「時差通勤」の歴史を見ていきます。
「やむを得ない対策」としての時差通勤 ―1970年代まで
「時差通勤」という考え方は、かなり古くから存在していました。その歴史は1940年代、戦時中にまで遡ります。戦時中の輸送力不足を背景に官庁の出勤時間が変更され、電車の遅延抑制に効果を発揮したとされています(角本,1956)。確認出来る限りでは、戦時中が日本での「時差出勤」のはじまりと言えそうです。
その後、1956年に運輸省の角本良平氏により「時差通勤の必要と可能性」という論文が発表されています。この頃は電車の混雑が極めて激しく、「窓ガラスが割れる」混雑率300%に届こうかという時代でした。角本氏の論文でもラッシュの混雑緩和を目的に提唱されており、既に現在と遜色ない内容で時差通勤の必要性が説明されています。
そして、1961年の1月に国鉄からも「時差通勤」の呼びかけが行われました。これは、冬の着により深刻化する混雑・遅延に対応するためです。省庁・会社・学校・工場など約21万人が対象となり、ピーク時間帯の緩和・遅延の抑制に成功しています(毎日新聞,1961)。
呼びかけは「駅長さん」が周囲の事業所や学校へと1軒1軒足を運び、地道な努力によって推進されました(朝日新聞,1965)。年々増える利用者に対応するため、呼びかけの対象範囲も広くなっていきました。
国鉄による冬の時差通勤呼びかけは、1975年までは新聞での報道が確認できます(毎日新聞,1975)。規模もどんどんと大きくなり、1971年には計200万人分の事業所や学校へ呼びかけを行うよう予定していました。
しかし、1971年以後「時差通勤」に関する報道は極めて少なくなっています。国鉄も毎年呼びかけは行っていたようですが、注目が集まらなくなった理由は2つが推測できます。
1つは、この頃には国鉄が取り組んでいた首都圏の輸送力増強工事が完成しつつあったことです。例えば常磐線や総武線の複々線化が1971年~1972年に完成しており、当初は混雑緩和に効果を発揮しました。これにより、国鉄側がトーンダウンした可能性があります。
もう1つは、国鉄のストライキ、いわゆる「遵法闘争」が激化していったことです。当時、国鉄ではストライキが多発しており、朝の時間帯に電車が運休・減便するのは日常茶飯事となっていました。1973年には、ストライキによる運休に対して利用者側が暴動を起こす「上尾事件」「首都圏暴動」といった事態にまで発展しています。すなわち、国鉄と利用者の間での信頼関係はどんどん冷めていったと言える状況です。この状況下で、国鉄と利用者が協力して行っていた「時差通勤」は鳴りを潜めていったのではないでしょうか。
このように「時差通勤」の呼びかけは戦前~戦後のラッシュが熾烈な時期に導入され、混雑が激しい時代を乗り切るために効果を発揮しました。この時代に効果を発揮できたのは、2つの要因が考えられます。1つは、遅延・混雑があまりに酷かったこと。すなわち、時差通勤に協力しない場合には遅延が発生してしまい、結局遅刻してしまう状況だったと言えます。
そしてもう1つが、国鉄からの丁寧な呼びかけ、すなわち細やかなコミュニケーションです。先述したように、呼びかけは駅長が周囲の事業所や学校を回ることで行われていました。これにより、事業者や学校側も受け入れやすい体制が構築されていたと考えられます。
「輸送力増強後の補完」としての時差通勤 ―1990年代まで
再び時差通勤が話題となったのは1990年頃のことです。
1993年、当時の運輸省と労働省が合同で「快適通勤協議会」が設置します。この当時も平均混雑率はまだ200%台と極めて高く、通勤ラッシュの緩和は重要な課題でした。
協議会の提言を踏まえ、試験的に行政機関やJR東日本の事務部門で始業時間の繰り下げが試行・導入されました。中にはうまく効果が発揮されたケースも存在しています。
例えば、1998年に埼玉県が浦和にある県庁への勤務者の半数を対象に始業時間を30分遅らせた事例です。約800人が8時台前半から後半に時間をずらしたところ、浦和駅を出発する宇都宮線・高崎線の遅れが減少したと報じられています(1998年,日本経済新聞)。
1990年代後半には、地方都市で通勤時間の道路渋滞緩和を目的とした時差出勤の試験も行われています。浜松、盛岡、金沢、福島、宇都宮、岐阜といった都市で実験され、効果を挙げた都市もあったようです。
この時代の「時差通勤」は、一通りの輸送力増強工事が完了したのち、それでも緩和しない通勤ラッシュの補完として用いられたと言えます。それだけに、1960年代ほど熱心には推進されなかったのではないでしょうか。
「快適性」と「混雑路線での対策」としての時差通勤 ―1990年代まで
三たび時差通勤の動きが活発化し始めたのは、2008年から2009年にかけての時期でした。混雑が特に激しく、遅延も多々発生していた東京メトロ東西線・東急電鉄田園都市線において、早い時間帯に通勤するとポイントやクーポンが得られるキャンペーンが行われます。
明言はされていませんが、この時期に始まった理由は2008年からのICカード「PASMO」普及と推測されます。ICカードによって乗降時間が簡単に集計できるようになり、改札通過時間に応じたキャンペーンが容易になったためです。
そして、2011年にも転機が訪れます。東日本大震災の影響による節電の実施、一部企業の「サマータイム」導入です。2011年の夏は節電の影響により、多くの企業や工場で営業時間の変更を余儀なくされました。通勤に与えた影響も調査されており、例えば新宿エリアでは、エリアの33%にあたる従業者が通勤時間を変更し、新宿駅の改札を8時~9時のピークに通過する人員が1日約9000人減ったとされています。計算すると、各線の混雑率0%~5%の低下に相当したようです。(国土交通省,2012)
震災以後にそのまま勤務時間を変更した企業も存在しており、現在に至ります。
この時代の「時差通勤」は、混雑が続く路線や、働き方の変化に対応する形で行われてきました。相変わらず目的は混雑の緩和です。中でも、1990年代に成果が出ている「遅延の抑制」、その結果によるピーク時の運転本数確保・混雑緩和が期待されていたように思います。
このように、「時差通勤」は様々な時代に、様々な手法で実施されてきたのです。
おわりに
「時差Biz」に至るまで、そして「時差Biz」の取り組みを見てきました。「時差通勤」という取り組みは既に長く行われてきた手法です。ラッシュが熾烈な時期には重要な通勤対策で、成果も挙げていました。
その時代に比べればラッシュが緩和されたいま、企業はなかなか腰を動かす気にならないのかもしれません。企業の言い分としては労務管理や仕事の能率の問題があり、時差通勤の導入には消極的です。フレックスタイムを導入する企業数も停滞傾向にあります。
一方、どの時期でも行政機関が率先して通勤時間の変更を行っていることは特徴として挙げられます。時差通勤の牽引役を担ってきたのは、常に行政機関でした。今回の「時差biz」も東京都という行政機関がとりまとめを行っています。
いま「時差Biz」に期待されるのは、2000年代後半からの流れにある「遅延抑制」の効果であろうと考えます。電車が遅延するか否かの瀬戸際、そうした微妙な乗客数が影響する場面において「時差通勤」という手法は活きます。実際、「時差Biz」に合わせて、特定の混雑列車を避けて乗るよう呼びかける会社も見受けられます。(京王線、つくばエクスプレスなど)
どうしようもないレベルの混雑に対応するために上から呼びかける時代から、遅延を抑制するために鉄道事業者が利用者とコミュニケーションを取ろうとする時代に変化しつつあるのかもしれません。
様々なことを書いてきましたが、やはり時差通勤は快適です。みなさまも、可能であればぜひ時差通勤を。朝の最ピーク、特に最も混雑する30分間を避けるだけでも少し変わります。(概ね、都心着8:10~8:40ごろ)
ぜひ、少しずつ変えて試してみてください。
関連記事
【交通】「時差通勤」を追いかけて―「時差Biz」を振り返る (前編)
参考文献
角本良平 (1956)『時差通勤の必要と可能性』「運輸と経済」16(2), 26-31頁
毎日新聞(1961)「効果あった『時差通勤』」,『毎日新聞』1961年03月12日 号 東京版夕刊,11頁
毎日新聞(1962)「国電地獄 峠を越す」,『毎日新聞』1962年02月06日 号 東京版夕刊,6頁
毎日新聞(1969)「関東支社で百万人に時差通勤を呼びかけ」,『毎日新聞』1969年11月05日 号 東京版朝刊,16頁
毎日新聞(1975)「まだ”着ぶくれラッシュ”―国鉄『時差通勤をよろしく』」,『毎日新聞』1975年01月09日 号 東京版朝刊,13頁
朝日新聞(1942)「朝日新聞 名案『時差通勤』を実施 混雑時の緩和に、警視庁乗出す」,『朝日新聞』1942年10月01日 号 東京版夕刊,2頁
朝日新聞(1944)「朝日新聞 名案『時差通勤』を実施 混雑時の緩和に、警視庁乗出す」,『朝日新聞』1942年10月01日 号 東京版夕刊,2頁
朝日新聞(1961)「時差出勤10万人が必要“通勤地獄”頼みの決め手 会社をくどき回る駅長」,『朝日新聞』1961年01月19日 号 東京版朝刊,11頁
朝日新聞(1961)「(上)_通勤地獄をどうする 座談会」,『朝日新聞』1961年01月25日 号 東京版朝刊,9頁
朝日新聞(1961)「(中)_通勤地獄をどうする 座談会」,『朝日新聞』1961年01月26日 号 東京版朝刊,11頁
朝日新聞(1961)「国電ラッシュ“時差通勤の続行を”春の乗客増に対策本部」,『朝日新聞』1961年01月25日 号 東京版朝刊,9頁
朝日新聞(1962)「きょうから 時差通勤・通学 ラッシュ電車同乗記」,『朝日新聞』1962年11月01日 号 東京版夕刊,6頁
朝日新聞(1963)「通勤ラッシュ 国鉄 きょうとあす」,『朝日新聞』1963年06月30日 号 東京版夕刊,5頁
朝日新聞(1965)「通勤ラッシュ 緩和にテコ入れ “時差”を百万人に 国鉄 改札止め掲示も増設」,『朝日新聞』1965年01月23日 号 東京版朝刊,13頁
朝日新聞(1965)「“百万人せき止め作戦” 東京の時差通勤計画」,『朝日新聞』1965月11月30日 号 東京版夕刊,7頁
朝日新聞(1966)「改札止め連発で切抜ける 最高潮の着ぶくれラッシュ 東鉄」,『朝日新聞』1966月01月09日 号 東京版朝刊,14頁
朝日新聞(1969)「来月から186万人を目標 時差通勤・通学お願い 総理府 東京・大阪の周辺」,『朝日新聞』1969月10月27日 号 東京版朝刊,2頁
朝日新聞(1970)「一時間早起き にが虫つぶした顔、顔_私鉄・国鉄統一スト」,『朝日新聞』1970月04月30日 号 東京版夕刊,11頁
朝日新聞(1972)「超ラッシュ、繰返す規制 国電 整理に機動隊要請 新宿 怒りの乗客あふれる」,『朝日新聞』1972月09月19日 号 東京版夕刊,11頁
東京都「時差Biz」(2017年7月25日確認)
https://jisa-biz.tokyo/
内閣府「時差通勤通学対策について」http://www8.cao.go.jp/koutu/juten/yosiki/jisa_01.html(2017年7月25日確認)
国土交通省「『節電対策のための企業等の勤務形態変更が鉄道輸送に与えた影響に関する調査』の概要について」
http://www.mlit.go.jp/common/000212196.pdf (2017年7月25日確認)
国土交通省 交通政策審議会「東京圏における今後の都市鉄道のあり方について(答申)資料編」
http://www.mlit.go.jp/common/001138592.pdf(2017年7月25日確認)
内閣府 男女共同参画白書 平成28年度版 「フレックスタイム制を導入している企業の割合の推移」
http://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/h28/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-00-18.html(2017年7月25日確認)
写真
朝日新聞(1965)「のびる複々線工事 ニュース・グラフ」,『朝日新聞』1965年11月25日 号 東京版夕刊,3頁
朝日新聞(1967)「心なごまず通勤客 ニュース・グラフ」,『朝日新聞』1967年01月09日 号 東京版夕刊,3頁
※出典「朝日新聞」の写真は、著作権法上の保護期間(公表より50年)が終了しているため、掲載可能となっています。(朝日新聞フォトアーカイブへと確認済)
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