「福祉県おかやまのシンボル」として1970年代に構想された吉備高原都市。前回は構想と前期事業について紹介しました。
今回は、1997年以降に起こった後期事業計画の行き詰まりと現在の吉備高原都市の姿を追い、吉備高原都市計画について考えたいと思います。
あまりにも壮大で財政負担が重すぎた都市計画
1997年に7期にわたって岡山県知事を務めた長野氏が勇退すると、岡山県は想像以上の財政危機に陥っていました。一時は夕張市と同じく財政再建団体一歩手前まで追い詰められ、後任の石井知事は開発主体から財政健全化を推し進める方針へと切り替えます。
財政健全化策を検討する中で、大規模開発であった吉備高原都市計画の後期整備計画は3年間凍結となってしまいました。また、直前まで地域振興のために計画されていた高速インターネット回線整備事業も縮小され、吉備高原都市は対象外とされてしまいます。
これまであった吉備高原都市に関する様々な計画もこの方針転換を境にぴったりと聞こえなくなり、1999年に整備された後期Aゾーンに作られた造成地は売れ残りが目立つようになってしまいました。
その後はネガティブイメージもあり、人口は2000人で頭打ちとなってしまいます。そして2000年になると岡山大学の中村教授を中心としたチームが地域の調査を行い、これ以上の計画推進は当面見送り、時代の要請があってから再開すべきという見解がまとめられました。事実上、計画の半永久的な凍結となったのです。
2011年にはバイオメーカーの林原が1300億円の負債を抱え、会社更生法を適用しました。翌年には長瀬産業の子会社となり、この前後に吉備高原都市の研究所も閉鎖となってしまいました。
こうした逆風の中、現在も後期Aゾーンの分譲は続けられています。
現在の吉備高原都市
実際に岡山市街からアクセス道路の吉備新線を通って吉備高原都市を目指します。道路は改良されているとはいえ、暫定2車線のアップダウンの激しい山道です。ところどころに4車線用の用地があり、計画の名残を感じます。交通量はそれなりにありましたが、快適に走ることができました。
2車線の道路が山の上の信号から突然4車線となります。ここからが吉備高原都市で、歩車分離構造の都市的な景観になります。そのまま進むと後期Aゾーンの端で道路がぷっつりと切れており、住宅がまばらな造成地が広がっています。人口の川は涸れ川となり、街路の除草も追い付いていないようでどことなく、寂しい光景です。現在も分譲が行われているようですが、状況はあまり芳しくないようです。
少し戻って北部住区や南部住区へ向かうと、家の売れ残りはなく、しっかりと人が住んでいます。エコや自然との共生を意識した生活を感じる住戸が目立ちました。
都市のセンターにあたる「きびプラザ」はホテルや銀行はあるものの、スーパーはコンビニエンスストアの「ポプラ」が代行しています。テナントも半分ほどが埋まっていません。それでも、地域の核として使われているようで、車や人の姿が見られました。
車以外のアクセスでは、岡山市街まで中鉄バスが走っていますが、1日5往復(土休日は4往復)しか運行されていません。
吉備高原都市計画は完全に失敗だったのか?
吉備高原都市事業は事業開始から約800億円が投じられました。しかし、計画半ばで事業が凍結し、計画人口7000人のうち2000人しか集められていません。この現状については様々な批判の声があります。長期にわたって在任した長野知事の元で行われた「バブル開発」の筆頭格とされ、「テクノポリスではなくタヌキポリスだ」と新聞に書かれることもあれば、ネットでは「開発に失敗した」という意見が目立ちます。しかし、このまちを単純に「完全に失敗した都市計画」として扱うことについては個人的に違和感があります。
まず、福祉については福祉工場であるパナソニック吉備の工場はいまだ稼働しており、地域には障碍者の方が数多く住んでいます。また、住宅が埋まっていないのは後期Aゾーンにとどまり、前期計画の北部住区と南部住区はしっかりと人が住んでいます。地域のお祭りもしっかりと行われ、リハビリテーションセンターもあります。前期の開発地域に関していえば、完全に失敗とは言い切れないのです。
一方で、疑問点と課題は多くあります。特に計画全体の人口3万人の根拠が疑問です。分譲地が埋まっている前期計画エリアでも計画人口を下回っていますから、そもそもの前提がおかしかったと感じざるをえません。
課題としては定年退職者の居住が多く高齢化が進んでいること、交通インフラ(特に乗合交通)が弱いこと、買い物施設が十分ではないことが挙げられます。特に買い物については日用品を岡山や倉敷への買い出しにいき、買いだめをする住民も少なくないという現実があります。
こうした課題は、途中で計画が凍結されてしまったこと、そして県都・岡山市街からの距離が遠すぎたことが大きく働いています。もしガイドウェイバスができていても、この距離のカバーは難しかったのではないでしょうか。高速輸送機関がなければ、距離を埋め合わせることは難しかったと思います。ただ、1970年当時の価値観ではこのことは予見することが難しかったのかもしれません。
ちなみに、計画が出た1970年代には民間ディベロッパーにより、山陽団地や岡山ネオポリスが岡山市の北西(現在の赤磐市)に整備されました。こちらは昼間でも岡山市街から20分に1本はバスがあり、交通の利便性は高く、買い物が近隣でできるようになっています。そのため、現在も分譲が積極的に進められているエリアがあります。
吉備高原都市をこれらの利便性が高い郊外住宅地と違った価値のあるまちの姿に整備しきれなかったこと、そして人々に「新しい都市像」の価値を訴求できなかったことは、計画およびその後の事業で見過ごされていたところだと思います。
しかし、理念的な意味ではこの場所が「新しい都市」にふさわしかったのも事実です。そういう意味では、高度経済成長期に見られた「夢」の名残と言えるのではないでしょうか。
今後は現在住んでいる人や空いている分譲地へのサポートをいかにおこない、そして地域のコミュニティをいかに維持していくか。21世紀らしい課題に向き合うまちとなりそうです。
関連記事
【まちづくり】岡山の山中にあった壮大な新都市計画を追う―吉備高原都市:前編
参考文献
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zenmz(2010)「【10182】 障害者と”共に生きる”実験都市」『【吉備野庵】』:http://zenmz.exblog.jp/13599505/(2017年06月09日確認)
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吉備高原都市HP:http://www.kibicity.ne.jp/ (2017年06月06日確認)
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