「八王子は山梨」というジョークが使われることがあります。これは、東京都心と気温が異なることや都市の構造といった要素から「ここは東京ではなく地方都市ではないか」という意味を含めて使われているようです。「町田は神奈川」と並んで使われる多摩地域のジョークですが、どちらも歴史と結びついているのが興味深い点です。
八王子は山梨(甲州)との結びつきが深く、山梨県から東京に向かうときには必ずといっていいほど八王子を通りますし、山梨県出身者が多く居住したりするイメージがあります。そして、八王子の繁栄は山梨と深く関係しています。
また、八王子市街は東西に長く伸び、時代によってまちの役割が変わっていったため、現在も歴史的地層が見えるまちとなっています。
そんな八王子市街のたどった足跡を、全4回にわたってお届けします。
元八王子と甲州
八王子を語るうえで欠かせないのが、甲州との結びつきです。八王子が栄えたのは五街道のひとつである甲州街道と宿場町の整備に端を発し、整備の理由もまた甲州にもとめることができます。
八王子という地名は後北条(小田原北条)氏が築いた城の鎮守を八王子権現としたことに由来しています。八王子城と名付けられたこの城は山城で、今の八王子市街から数キロ離れた「元八王子」にありました。中央道の渋滞で有名な「元八王子バス停」の付近です。
八王子城を治めていた後北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると、関東は徳川家康の支配下になりました。江戸城を拠点に関東を治めた家康にとって、広大な領土の治安が課題でした。そのために、甲州にいた元武田家の家臣を召し抱えて八王子城下に配したのです。これが現在の八王子市街を作りだす端緒となりました。
西八王子駅と千人町
ここからは、まちを歩くように順を追って解説していきましょう。
JR西八王子駅を降りると、昔ながらの駅ビル「ロンロン」があります。JR東京西駅ビル開発株式会社が管理するビルで、昔は中央線の各地に「ロンロン」と名のつく駅ビルがありましたが、いまは西八王子のみとなっています。ちなみに元「ロンロン」の多くは「アトレ」に改装しています。
このあたりの地名を「千人町」といいます。珍しい地名ですが、八王子を語るうえでは欠かせない「八王子千人同心」の屋敷があったことに由来しています。
「八王子千人同心」とは江戸時代に結成された治安維持集団で、元八王子にいた徳川家康が召し抱えた武田家の家臣たちに加え、後北条氏の家臣や農民なども巻き込んで組織されました。
はじめは治安維持を目的とした集団でしたが、のちに日光東照宮の警護を担当することとなり、八王子から東松山、佐野を通って日光へ行く道は「千人同心街道」として一部松並木も残っています。このほかにも武芸や学問に秀でた者を輩出するなど「八王子千人同心」はユニークな集団でした。
この、「八王子千人同心」の発起人かつリーダーとなったのが大久保長安(おおくぼ・ながやす)です。徳川家康に気に入られて八王子に所領を与えられた長安は家康へ防衛の重要性を具申し、「八王子千人同心」を結成しました。
そして、長安や千人同心を中心に八王子城下から移された横山・八日市・八幡の各町の振興と宿場町としての整備や江戸へつながる街道の整備を行うことで八王子発展の礎を築きました。ただ、長安は豪遊癖もあったようで、彼の死後に大久保家は大久保長安事件により断絶しています。
さて、甲州街道に出ると、東西へイチョウ並木が伸びています。これは昭和2年に造営された多摩御陵の表参道として整備されたもので、多摩御陵から浅川を越える大和田橋までが新道となっています。
甲州街道を千人町から東へ向けて歩くと、左手には「萌え寺」として有名となった「了法寺」が見えます。派手な寺院ではないものの、キャラクターをあしらった自動販売機や立て看板が置かれています。
八幡町は愛されたスーパーのふるさと
イチョウ並木を抜けると大きな交差点があり、名を「追分町」といいます。ここは甲州街道と案下道(甲州裏街道・陣場街道)を分けており、交差点の片隅にたたずむ道標が、その歴史とたどってきた経緯を物語っています。
追分町交差点をすぎると、八木町を挟んで八幡町に差しかかります。ところどころにレトロでフォトジェニックな建物が立っており、歩いていて楽しいところです。
やがて右手に「グルメシティ八幡町店」の建物が見えてきます。ここは忠実屋というスーパー発祥の地です。
忠実屋は戦前に群馬出身の織物会社を脱サラした高木国勝が創業した行商がルーツです。国勝の死後に八王子でコンニャク屋を営んでいた伊藤吉友を養子として迎え、八幡町に店を構えました。
その後、関東一円にスーパーマーケットを展開するとともに幅広い事業展開を行うも、業績低迷によってダイエーと提携ののち合併となり、1994年にはダイエーの傘下となり、屋号は消滅しています。
地元の人たちに愛されたスーパーであり、最近では1/50のジオラマまで制作されています。屋号は聖書の一節「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。(ヨハネの黙示録2章10節)」に由来しているそうです。
「グルメシティ八幡町店」のはす向かいには八王子織物組合の建物があります。かつて八王子は「桑都」として栄えた織物のまちでした。甲州・信州・秩父から横浜港に至る途上に八王子があり、集約機能を担っていたことが理由です。八王子から横浜へは「絹の道」と呼ばれた道を通って輸出されていきました。
織物会館の建物にはそんな歴史の重みがあります。また、甲州街道沿いには銀行が点在し、「山梨中央銀行」や「群馬銀行」もそんな絹のつながりを感じさせてくれる建物たちです。
交通の要、八日町にあった百貨店
八幡町を抜ければ八日町に差し掛かります。この八日町と横山町が「八王子横山十五宿」の中心となっており、大久保長安が整備したエリアでもあります。八日町は全国に数ある○日町の例にもれず8日、18日、28日に市が置かれていたことに由来しています。
国道16号線との交差点「八幡町」交差点から東が八日町となり、いよいよ八王子の中心市街地に入っていきます。まず「八幡町」交差点の角には「八王子エルシィ」という結婚式場があります。
ここはかつて八王子最初の百貨店「まるき百貨店」が営業していました。松坂屋と提携し、6階建ての屋上には遊園地まで作られたといいます。しかし8年足らずで閉店、そのあとにはなんと甲府の百貨店「岡島」が「八王子岡島」として開店しました。しかし1年足らずで閉店し、その後は結婚式場を中心に管理・運営されています。
再開発ビルの「ビュータワー八王子」を横目に見ると三菱東京UFJ銀行とならんでマンションがあります。長谷工コーポレーションが建てたこのマンションは以前「イノウエ百貨店」があった場所であり、1963年から1971年まで営業していました。その後は「忠実屋八日町店」となったが、それも閉店。そして2012年に解体されています。
1960年代にはこのように八日町が隆盛しましたが、その後は横山町、八王子駅北側へと中心が移転し、現在に至っています。
八王子市街を歩こう
八王子の歴史を中心に西八王子から八日町まで紹介してきました。この通り西八王子駅から歩けば歴史の時間軸と共に街を眺めてあるくことができ、非常に楽しいエリアです。途中にユニークなカフェがあればそちらも紹介できれば思っていましたが、あいにく道中では発見できませんでした。ただ、そこまで長い距離でもなく、30分足らずで歩きとおせてしまうため、散歩がてら歩くにはちょうど良いコースだと思います。
次回の「八王子の生い立ちと足跡を追う」では現在の中心市街地である八王子駅北側エリアにおける商業重心の変遷について追いかけていきたいと思います。お楽しみに。
[参考資料]
・「八王子市」八王子市. http://www.city.hachioji.tokyo.jp/(2016年10月28日最終閲覧)
・「了法寺」了法寺. http://ryohoji.jp/(2016年10月30日最終閲覧)
・今尾恵介(2015)『地図でたどる多摩の街道 30市町村をつなぐ道』 けやき出版
・umegold(2010)「原付で甲州街道を走ってみた(その11)横山」ニコニコ動画. http://www.nicovideo.jp/watch/sm9869301 (2016年10月28日最終閲覧)
・umegold(2010)「原付で甲州街道を走ってみた(その12)横山-駒木野」ニコニコ動画. http://www.nicovideo.jp/watch/sm10123343 (2016年10月30日最終閲覧)
・「八王子の商店街で「おもひで写真街道」 「忠実屋」のジオラマも」八王子経済新聞 2016年10月18日付け. http://hachioji.keizai.biz/headline/2171/ (2016年10月30日最終閲覧)
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