福井市は九頭竜川(くずりゅうがわ)と足羽川(あすわがわ)の下流の平野に開けた城下町を下地にした、福井県の県庁所在地です。人口は約26万人で北陸3県の県庁所在地の中で最も少なく、全国でも40番目になっています。こうした人口規模や平野に開けたまちであることを背景にして、比較的早くから郊外に大型店舗が展開し、そうした郊外の商業施設が市の商業を牽引するまでになっています。その一方で、福井市を含む福井県内には郊外を中心に全国で展開する流通最大手のイオンによる商業施設がありません。
さて、このようなまちのすがたはどのように生まれてきたのでしょうか。今回はそんな福井市の姿を市街地の歴史から読み解いていきます。
福井市街地のすがた
福井市の玄関口の一つ、福井駅に降り立つと近代的な高架ホームにびっくりします。改札を出て右に行くと福井城や商業集積がある西口です。
西口は北陸新幹線建設に伴い、福井駅を高架化するのに併せて再整備されました。きれいな円形のバスターミナルや21階建ての再開発ビルの「ハピリン」、そしてバスターミナルの横にホームを構える福井鉄道が特徴的です。
福井駅前の商業集積は、この福井鉄道が福井駅へ出入りする通称「ヒゲ線」が走る駅前電車通りと福井城趾周辺にあるといえます。特に駅前電車通り沿いには地場百貨店「だるま屋」を母体とする西武福井店があり、このあたりの商業の中心となっています。銀行は駅前電車通りと市街を南北に貫くフェニックス通りが交わる大名町交差点周辺にあります。
官公庁は福井駅から北東にいった福井城址に県庁があるほか、近隣に市役所があります。またフェニックス通りを北上すると裁判所があり、大名町の西側には「片町」と呼ばれる歓楽街が開けています。
フェニックス通りの中央には福井鉄道の軌道線が走っています。福井鉄道は市街地のみを併用軌道で走り、郊外で急行運転を行う国内では数少ないLRTと呼べる路面電車です。近年えちぜん鉄道との直通運転(田原町フェニックスライン)や駅近くへの無料駐車場の設置、国内最大級のLRV車両の導入など積極的な施策が続き、乗客・収益ともに一時期より回復傾向にあります。
柴田勝家が開いた北庄から福井へ
福井市街地の端緒は安土桃山期の柴田勝家による北庄城築城に求めることができます。勝家は1575年に越前に入ると加賀一向一揆の平定に努めると共に北庄城を築城します。足羽川と荒川が合流する場所に築城されたこの城を拠点に、勝家は城下町を作り、交易拠点としての機能を持たせました。
その後、柴田勝家は豊臣秀吉に滅ぼされ、丹羽氏・堀氏による治世を経て江戸期に入ると徳川家康の次男、松平(結城)秀康が茨城の結城から移り、越前68万石を治めることになります。現在の市街地の原型は松平氏によってつくられたもので、現在跡地が残る福井城は江戸期の1606年に築城されたものです。この頃はまだ北庄と呼ばれていましたが、3代目藩主松平忠昌が「北」は「敗北」につながるとして福居と改めさせます。そして福井と名を変えて現在に至っています。
この頃の市街地は旧北陸街道沿いにまで開けていました。北陸街道は城を取り囲むように通っており、南は現在の商工会議所付近から北西へ折れ、途中足羽川にかかる九十九橋を通り、北は現在の松本通りにあたる場所を通っていました。そして街道沿いは町人街として整備され、明治期までは商業の中心を担っていました。特に商業が活発だった場所は「京町」や「片町」(いまの順化二丁目付近)で、駅前地区よりもはるかに西寄りにあったのです。
その後、明治期に入って廃藩置県が行われると、福井県がおかれます。福井城は取り壊され、一時期「松平試農場」として園芸農地にもなっていました。これは大正期に入り、松平家が福井県に城趾を無償貸与し、県庁が移転することで解消されます。
県庁移転と百貨店開業
明治期に入ると全国的に絹の生産が盛んになります。福井も例外ではなく、織布のために機械を導入し、「羽二重」(はぶたえ)を主に生産します。これが欧米からの旺盛な需要を喚起しました。羽二重とは柔らかく光沢のある布で、いまでも高級な布として扱われています。これにより、明治大いに景気がよくなり、現在の歓楽街にあたる本町周辺や九十九橋の南に芸娼妓のいるエリアが形成されていきました。
その後、羽二重からレーヨンに生産の中心が移りつつも、長らく織物産業による経済が福井を支えます。そんな中、県庁の移転が福井の市街の姿を大きく変えることになりました。
1923年に福井城内に県庁が移転しますが、県が建設費捻出のために、跡地となる土地を分割して払い下げたのです。1926年に一部の土地を熊谷三太郎が購入し、資金提供の上で百貨店の建設を計画します。そしてその企画に大きく関わるのが坪川信一でした。
坪川は百貨店構想が具体化した際に県議会議員から百貨店経営へ転身した人物ですが、元々は教師でした。彼は「教育の商業化」を標榜し、子ども本位の百貨店を作ります。2階建ての建物のうち1階は「子ども百貨部」をもうけ、おもちゃや文具を並べました。2階には大ホールと食堂、屋上には庭園や子どもの遊び場を設けます。また、はじめ百貨店計画が地元との軋轢を生んだことから、別館に地元業者への貸店舗を設けました。そこでは現金取引や商品の陳列で商業の近代化を行い、地元業者に刺激を与えます。
こうして1928年に「みなさまのだるま屋」をキャッチフレーズにだるまや百貨店が開業しました。
金沢資本の百貨店進出と鉄道開業
その3年後、金沢の大和(当時は宮市大丸)が福井の実業家を利用し、反対運動をかわして福井駅前に「福屋デパート」を開業し、実質的に金沢資本の百貨店が福井進出をしました。これにより、商店街・だるまや百貨店・福屋デパート(大和)の三つ巴の戦いとなります。それと共にだるま屋や福屋のある福井駅前エリアには飲食店やサービス業の店が増え、商業の中心が移っていきました。
このころ市街へ向けて鉄道も開通します。1914年には越前電鉄(現在のえちぜん鉄道勝山永平寺線)、1925年には福井鉄道、1928年には三国芦原電気鉄道(現在のえちぜん鉄道三国芦原線)が開業します。しかし3路線とも1896年に開業した北陸線には接続していませんでした。
その後、福井鉄道が福井駅前へ乗り入れる計画が持ち上がったのに際し、福井市街を環状運転し、武生方面と三国方面の鉄道がそれぞれ接続する環状線計画が生まれます。しかし、1927年に費用の莫大さを理由に免許が却下され、福井駅の改修工事に伴って1929年に越前電鉄と三国芦原電鉄が福井駅に乗り入れます。
そして福井鉄道は1933年にようやく乗り入れを達成し、福井駅前に交通が集中するようになりました。
戦災・震災・水害から立て直した「フェニックス」の市街地
太平洋戦争が起こると戦争末期にはアメリカ軍の手で各地に空襲が行われますが、福井も例外ではありませんでした。1945年7月19日の夜に行われた福井空襲では標的が市街地に集中し、市街地の95%が焼き尽くされ、93.2%の住民が罹災するという全国でも大きな規模の被害を出しました。
そして戦争が終結し、復興が始まってまもない1948年、福井地震がまちを襲います。マグニチュードは7.3、直下型のものでした。これで福井のまちは再び灰と化します。さらに戦災を逃れた建物でも被害があり、鉄筋7階建ての大和百貨店(福屋デパートから改名)のビルは15度傾いてしまいます。結果的に大和百貨店は閉店し、福井からは撤退しました。さらに地震の翌月には豪雨により九頭竜川が決壊したほか、市街地に近い足羽川や荒川も氾濫、福井の人々は災害に翻弄されてきました。
そこで復興にあたっては近代的な都市計画による復興を進めます。元々福井は大火が多く、また織物業の発展と共に無秩序に市街が広がっていたことから戦前から道路整備と用途指定を中心とした都市計画がありました。戦前は資金難により実施できませんでしたが、戦後は戦災地復興計画の立案と福井地震を契機とし、区画整理や道路整備を中心に現在のまちの骨格ができあがっていきました。
この戦災地復興計画に基づく都市基盤整備により、福井市街を歩くと、格子状近い街路が形成されていることがわかります。
こうしてできあがった新しい市街地を南北に貫く通りは「フェニックス通り」と名付けられました。3つの災害に翻弄されてきた福井にとって「不死鳥」を表す「フェニックス」はまさに3つの災害を乗り越えてきた福井のまちそのものとも言えます。
郊外へ広がる福井市街
戦災復興計画に災害復興が終わり、1960年代にはモータリゼーションの時代を迎えます。1966年には国道8号線福井バイパスの建設が始まり、同時に市街地の外側に環状道路が計画されます。
そして1970年頃からは県外資本が進出するようになります。1968年にはほていや(ユニー)が、1971年にはファッションランド・パル(ジャスコ)が進出します。また、ダイエーの進出も噂される中で、地元の小売店が主導するショッピングセンター「ピア」、「ベル」が1970年代後半から80年代にかけて市街地から離れた郊外に開業し、商業地区が3つに分かれました。
福井駅前エリアでは1970年にはだるま屋が西武百貨店と提携し、その後隣接する地主と共に福井駅前を再開発する計画を立てます。1974年には7階建てのショッピング棟と11階建てのホテル棟を核とするところまで具体化しますが、その後は計画は不調に終わりました。
郊外化、モータリゼーションの流れは止まることはなく、ピアに変わってフェアモール福井が誕生し、現在は福井バイパス沿いに商業の中心が移りつつあります。
これに対し、大正期から市内で一番だった商業集積地である福井駅前では駐車場の整備や駅前再開発を推し進め、市街地における商業の衰退食い止めを図ろうとしていますが、未だ途半ばです。
現在の福井市街の課題
ここまで福井市街の歴史を近代から現代を中心に見てきました。旧北陸街道を中心とした商業機能が官庁移転や郊外化によって段々と駅へ向けてへ移動し、その後に郊外化していることがわかります。
そのため、福井市の市街地には商店街が点在していることが特徴的でもあります。(参考:福井市商店街連合会商店街マップ http://www.291shops.com/access/)実際に市街地を歩くと、郊外化の影響も相まって駅前地区の中心性が希薄なようにも感じてしまい、なんとなく色々な用事をまとめて済ませられる「まち」というには魅力に欠けるのが実情です。
このばらけたイメージの形成には戦災復興計画による都市基盤整備の影響もあるでしょう。従来からの産業、織物業への配慮や道路を格子状に配したことが中心性の希薄化に寄与しているのではないでしょうか。
こうした状況の中で新しく行われた駅前再整備により「まちの顔」感を出そうとしており、現状では「ハピリン」に多くの人がやってきているように見受けられますが、ハード整備だけでうまくいくのかどうかは未だに未知数です。
それよりも、新栄商店街やガレリア元町商店街などで進んでいるリノベーションまちづくりのようなものが市街地活性化に寄与していくのではないかと考えられます。また、現状の駅前電車通りでは店に活気やフレッシュさがなく、暗い空気になってしまっており、西武までが遠く感じられすらします。
こうした空気をリノベーションによる新しい店舗の取り入れで明るいモノに変え、新陳代謝を促していくことがいまの福井駅前には必要なことのように思えてなりません。同時に市街地に点在する商店街も希薄なイメージです。今後はこうした商業地区でうまく棲み分けや再配置をうながし、メリハリのある市街にしていくことも必要になっていきそうです。
参考資料
東京書籍(1986)「市町村で見る福井県の歴史」東京書籍.
福井市(2004)「福井市史 通史編 3(近現代)」福井市.
日本経済新聞(2017)「福井「ハピリン」1年、来場堅調、駅前にぎわう、予想超す283万人、商店街へ波及ばらつきも(北陸リポート)」,『日本経済新聞』2017年4月25日,地方経済面 北陸 8頁
日本経済新聞(2017)「福井市中心街、家守が元気に、新会社が続々、リノベーション、市も後押し。」,『日本経済新聞』2017年6月21日,地方経済面 北陸 8頁
GPSCycling:https://ssl.gpscycling.net/ (2018年5月15日閲覧)
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