近年、「コンパクトなまちづくり」が盛んに叫ばれています。その裏には、かつて郊外、そして「超郊外」で無計画な宅地開発が行われ、様々な社会的損失を引き起こしたという都市計画的な反省があります。
今回は北総台地で過去に行われた無計画な宅地開発の経緯を紹介し、その結果生まれた「超郊外」の分譲地のこれからについて考えます。
北総台地に生まれた「超郊外」の分譲地
戦後の日本は、経済発展と産業構造の変化に伴い、膨大な人口が都市部へ流入しました。爆発的な勢いで都市が拡大するなかで、住宅供給は逼迫の一途を辿り、1950年代後半から1970年代にかけて、首都圏の郊外でも、大規模な住宅団地の造成が推し進められていきました。
一方、この時代はモータリゼーションの発展やレジャーの多様化も進み、全国各地で自動車道路の建設やゴルフ場などのレジャー施設の建設も相次いでおり、衰退する林業や農業に見切りをつけ、所有する山林や農地をこれらの事業用地として売却することによって大きな収入を得る地主も多く、日本では土地取引を軸とした開発・投機ブームが過熱していくことになります。
千葉県の北東部、北総台地上では、明治時代に開墾された開拓農地において畑作が続けられていましたが、1960年代後半、成田市に新東京国際空港(現・成田国際空港)の建設案が持ち上がると、一躍、この静かな農村地帯が投機対象として俄かに注目を浴びることになります。
成田空港と言えば、用地収用を巡って繰り広げられた激しい反対運動があまりに有名ですが、同時進行的に、空港周辺の自治体では、投機目的に特化した宅地造成・分譲が盛んに行われていました。分譲の形態としてはあくまで住宅用地でしたが、当時の取得者の中には、宅地としての転売よりも、のちの大型開発における用地買収の際、地権者の一人として名を連ねたいという思惑もあったのでしょう。
住宅地として著しく見劣りする分譲地たち
こうした投機目的の分譲地は、実際に居住する意思のない層を対象にしていたため、住宅地としては著しく見劣りすると言わざるを得ないものがほとんどでした。そのことは同時期に建設開始された成田ニュータウンと比較しても明らかです。
成田ニュータウンは空港関連施設の勤務者のための住宅団地というしっかりとした目的を持ち、空港アクセスを考慮した場所に開発され、整然とした区画割りに計画的に住戸が並びインフラ・公共施設が完備されていました。
一方で、投機目的の分譲地は主要な鉄道駅や旧来の市街地から遠く離れ、周辺に商業地もない山林や農地を切り開いており、公共の上水道すら配備されていませんでした。こうした分譲地では生活用水を団地単位の集中井戸あるいは各家庭から個別の井戸を掘削する事によって確保するという有様でした。
こうした北総台地上の投機目的の分譲地は、1970年代前半に盛んに造成されました。当時の航空写真を見ると、純然たる農村地帯の合間の所々で、周辺環境とは不釣り合いな宅地造成が行われている模様が視認できます。それはもはや「郊外」と呼べる立地でもなく、こうした立地の住宅団地を明確に定義する用語は今日でもありませんが、「超郊外」や「遠隔住宅地」、また揶揄的なニュアンスを含むことも多いですが「限界ニュータウン」等と呼称されることもあります。
これら「超郊外」の宅地造成は、1970年代の後半になると、景気の後退によっていったん鳴りを潜めます。ごく僅かに住宅建設が進んだほかは、大半の住宅用地が更地のまま、利用されることもなく放置されていました。元々都市部へのアクセスが困難な立地ばかりなので、大きな需要が惹起されることもなかったのです。
バブル期に再び脚光を浴びる「超郊外」
転機が訪れたのは80年代後半のバブル期です。
都市部における地価の暴騰によって、一般的な賃金労働者の住宅取得はますます困難となります。そこで、長く放置され、地価狂乱の波から取り残されてしまった「超郊外」の分譲地が再び開発の日の目を見ます。
このとき「超郊外」分譲地に住宅を建設したのは主に周辺地域に生活基盤を持つ人々で、成田市の南部、富里町や八街町、山武町(いずれも当時)などは、この時代に人口が倍増するほどの膨大な数の住宅建築が進みました。しかし、それでもその分譲地の空地がすべて家屋で埋まることはありませんでした。つまり70年代の「超郊外」の分譲地は、造成当初から一貫して完全な供給過多の状態にあったのです。
そしてバブル崩壊後、長い景気低迷の時代が続く中で、千葉の「超郊外」の分譲地は衰退の一途を辿っていくことになります。
その理由としては、前述のように、ほとんど実需を考慮しないまま場当たり的に造成された住宅団地であるため、住宅地としての規格が低水準であることも大きなものでしたが、やはり最大のネックはその利便性の悪さです。多くの分譲地は、主要駅からの路線バス網が唯一の公共交通手段でしたが、利用者数の低迷によりそのバス便は次々と減便・廃止となり、今となっては公共交通でのアクセスがほとんど期待できない住宅地と化してしまったのです。通勤・通学の不便さを嫌って、新たに流入する住民も途絶えてしまいました。
そして、こうした不便な立地の分譲地、言い換えれば地価の安い分譲地を取得して住宅を購入する方の中には、酷な言い方ですが、結果的に「高値掴み」となってしまったバブル期の高額・高金利の住宅ローンの返済に耐え切れなかった方も少なくありませんでした。住宅ローンの滞納による差押えが最もひどかったのが八街市で、一時は競売物件数が全国一位になるほど住宅の差押さえが多発していました。
取り残される「超郊外」のいま
今、これら千葉県の「超郊外」住宅地の現状はかなり厳しいものとなっています。当初、投機目的でこれらの分譲地を取得した所有者は多くが高齢となり、元々遠方に住んでいる不在地主が大半であることも手伝って、既に管理放棄され、荒れるに任せた宅地も少なくありません。
バブル期に建てられた戸建住宅も、長い地価下落の時代を経て資産価値は大きく目減りし、僅か築30年程度で充分再利用できるコンディションであるにも拘らず、売家として市場に出ることもなく、荒れるに任せた空き家の状態で放置されている姿を頻繁に見かけます。いまだ居住者がいる現役の住宅地であるにもかかわらず、部分的に元の山林に還りつつある分譲地も見受けられます。
千葉の「超郊外」では、建売販売が行われた分譲地を除けば、区画のすべてが家屋で埋まる住宅地はむしろ例外的な存在で、空き地の合間に、虫食い状にポツポツと家屋が点在する住宅地が、ごく一般的な光景です。
未利用地を多く抱えた空き地だらけの分譲地は、成田空港の周辺に限らず、現在の圏央道の沿道周辺に多く残されており、今日でも宅地として販売が続けられています。それは造成当初から一度も家屋が建てられたことはなく、土地の条件が悪ければ、坪1万円を切る価格で買い手が付かぬまま、いまだに不動産市場に取り残されているのです。
その数はあまりにも膨大で、地元の仲介業者でも、その売地のすべてを把握している業者はいないのではないかと思われます(ある仲介業者は、その数を「おそらく数千に上る」と推測しています)。
「超郊外」に取り残されたストックが持つ可能性
昨今では「都心回帰」という言葉が頻繁にメディアに登場するようになりました。成田ニュータウンのような整備された郊外住宅地ですら、先行きを不安視する声が散見されます。人口減少に対応するインフラ整備の効率化という視点で考えれば、なるほどコンパクトシティの推進に理はあります。しかし、人は必ずしも合理性のみを追求して行動する生き物ではなく、居住地の選択の自由を極端に制限することには困難が予想されます。また既にある膨大なストックを放棄したまま、新たに莫大な資本を投入して一から都市を構築するのが、果たして合理性に基づく選択肢であるのかも疑問符が付きます。
むしろ、多くの郊外や地方の小都市において、既に土地の「資産性」が失われつつある今だからこそ、まちづくりの主役である市民自ら、その活用・再利用に積極的に関わる事が求められる時代なのではないでしょうか。土地を、一部の事業者や資産家のための「投機商品」ではなく、「地域社会の共有財産」として生かしていく試みが、今後は問われていく地域も出てくると思います。
その一つのケーススタディとして、既に「土地余り」の段階に入っている北総の住宅地の現状を今後も調査していきたいと考えています。
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参考文献
吉田友彦(2004)「首都圏郊外部における放棄住宅地の環境管理に関する基礎的研究」,『土地総合研究』13(3),88-90頁
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