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【まちづくり】団地は『粗製濫造』じゃない!現役団地「高島平団地」に見る日本住宅公団、苦労の歴史

 少子高齢化社会において「団地」という存在がいま過去のものになろうとしています。
 かつては人口増加や経済成長と共に大量に造成されてきた団地。しかし、近年では独居老人や孤独死、飛び降り自殺、住民の多国籍化による住環境の悪化といった様々な暗いワードと結びつけられて語られることが増えています。
 また、「団地は粗製濫造」、「まるでウサギ小屋」と言われることもあり、まるで日本の住環境の向上を阻んだかのようにも言われることがあります。
 しかし、本当にこうした悪いイメージ通りなのでしょうか。
 私は徐々に消えゆく各地の団地を追いかけていく中で決してそうではないということを感じてきました。
 そこで今回は、団地建設をけん引した日本住宅公団が造成した団地としては代表的ともいえる「高島平団地」を舞台に、団地の変化と苦心を考えることで『粗製濫造ではない団地』の側面を紹介したいと思います。

 
高島平駅前の高層住棟(撮影:わくせん・2018年)

都営三田線高島平駅前の高層住棟。圧巻の眺めだ(撮影:わくせん・2018年)

 
高島平団地における中層・高層住棟の分布

高島平団地における中層・高層住棟の分布(作成:鳴海行人) (OpenStreetMapを元に作成) ©OpenStreetMap contributors

 

高島平団地の「いま」

 東京の中心・大手町駅から都営三田線に乗って約25分、地上に出ると住宅地を左右にかき分けるように進んでゆきます。やがて左手に見えてくる高層住宅のカタマリ、これが高島平団地です。
 高島平団地は日本住宅公団の手によって1972年に完成した団地です。日本住宅公団の手掛けた単一の団地としては最大の規模を誇り、10,170戸を擁します。完成当時は「東洋一のマンモス団地」と喧伝され、高層の住棟が林立する様は今日でも迫力満点です。
 では、団地の東側にあたる高島平駅で降りてみます。目の前には6車線の高島通りが走り、通りと緑地帯を挟んだ場所に高層住棟が林立しています。目の前に迫る風景に思わず圧倒されそうです。
 しかし、団地内に入ると一転、圧迫感はありません。住棟のデザインや配置に工夫が凝らされ、巨大さを感じにくくさせています。住棟群をよく見てみると、ベランダが南を向いた住棟がメインでありつつ、南北方向に建てられた住棟も適度に混ざっています。住棟に囲まれたオープンスペースは駐車場や緑地になっています。そのため、むしろ団地外の住宅地よりも開放感があるくらいです。また、高層住棟が防音壁として作用していることもあり、静かなことも大きな特徴です。子供の姿も多く、活気があります。

 
高層住棟の間は思った以上に開放感がある

高層住棟の間は思った以上に開放感がある(撮影:わくせん・2018年)

 

 さて、高島平団地は高層住棟がよく注目されますが、実は中層住棟もあります。
 日本住宅公団は賃貸だけでなく分譲住宅も手がけており、高島平団地にも1,883戸の分譲住宅が建設されました。中層住棟はそのうち700戸ほどを占め、団地敷地の南西側に立地しています。
 この付近は新高島平駅が最寄りで、駅前こそ高島平駅前と同様に高層住棟が出迎えてくれますが、高層住棟の向こうには郊外の団地さながらの風景が広がっています。
 中層住棟エリアは住棟だけでなく、設計基準も郊外の団地と同等に設定されています。
ここは高層住棟エリアと異なり住棟間に芝生が広がっているのも特徴で、ゆったりとした空気を感じます。

 
高島平団地の分譲エリアには中層住棟と高層住棟が混ざり合う。写真のような中層住棟に「団地」のイメージを重ね合わせる人も少なくないだろう

高島平団地の分譲エリアには中層住棟と高層住棟が混ざり合う。写真のような中層住棟に「団地」のイメージを重ね合わせる人も少なくないだろう(撮影:わくせん・2018年)

 

大規模団地が生み出されるまでの団地の歴史

 さて、高島平団地が生まれるまでの日本の住宅事情の推移を見ていきましょう。

 第二次世界大戦終戦後、都市部を中心に戦災による住宅の消失および外地からの引き揚げ・復員により深刻な住宅難に見舞われ、不足戸数は420万戸にも達するとされました。このころの日本の住宅事情は「風雨をしのげれば御の字」と大変追い詰められた状況でした。
 戦後5年が経過すると、漸く住宅政策も応急措置から恒久措置への転換が模索されるようになります。1950年の住宅金融公庫法、1951年の公営住宅法をもって住宅の計画供給体制が整ってきました。
 こうして全国で公営住宅の建設が本格化し住宅難解消へ政府、自治体の懸命の努力が続いていくことになります。しかし都市部ではそもそもの不足戸数の多さに加え地方からの人口流入もあり、解決への道のりは険しいままでした。また、地域によって住宅供給数や住宅の質にばらつきが出ていました。そこで政府の中では次第に、自治体の枠を超えた広い視野での住宅開発の必要性が議論されるようになります。
 そして1955年に「住宅建設十箇年計画」が打ち出され、実行部隊として1955年7月、日本住宅公団が設立されます。
 『日本住宅公団史』には公団の任務として以下の4つが与えられたと記されています。
 『 1.住宅不足の著しい地域における勤労者のための住宅建設
   2.耐火性能を有する集合住宅の建設
   3.行政区域にとらわれない広域圏の住宅建設
   4.大規模かつ計画的な宅地開発』
 公営住宅には自力での住宅建設が困難な低所得層の救済という側面がありました。一方、日本住宅公団の建設する住宅は都市に暮らす勤労者に対し耐火性能を備えた住宅を計画的に大量供給することで都市の住環境を一挙に引き上げることを目論んでいたのです。

 
日本住宅公団がはじめの頃に手がけた三鷹駅前住宅。防火性が重視されている。この頃は高島平団地のように「面」の開発は行われていなかった

日本住宅公団がはじめの頃に手がけた「三鷹駅前市街地住宅」。この頃は高島平団地のように「面」の住宅開発は行われていなかった (撮影:わくせん・2017年)

 

 とはいえ、住宅難は差し迫った問題であり、理想はさておいてもとにかく迅速に住宅を建設することが求められました。日本住宅公団では様々な手法を用いて住宅の供給を進めていきますが、なかなか根本的な解決に至りません。そこで、大量の住宅供給と市街地の改良を一挙に行う手法が編み出されます。それは市街地内の工場が公害対策などで移転した後の広大な土地を日本住宅公団が全面買収し、高層住宅・緑地・利便施設を一括で建設するというものでした。これが現在の「団地」のイメージに近く、それまでの住宅開発に比べると壮大なものとなりました。
 首都圏では金町駅前団地を皮切りに、3,000から5,000戸という大規模な団地整備が進められ、その一つの到達点としてこの高島平団地があるのです。

高島平団地の理想と挫折

 では高島平団地はどういう場所だったのでしょうか。
 高島平はもともとは徳丸田圃といわれた広大な水田地帯でした。23区内にしてのどかな田園風景が残っている地域でしたが、1960年代にはいると周辺地域が工業地化し始め環境が悪化、耕作を続けるのが困難になりました。そこで地権者は組合を作り、区画整理の交渉を始めます。そして1962年、日本住宅公団にまとめて売却されました。
 日本住宅公団では当初郊外によくみられた団地と同様の中層(4-5階程度)住棟を中心に整備することを計画し、1966年に分譲住宅と賃貸住宅あわせて約4,800戸の団地を造成する事業計画が認可されます。
 計画に基づき、分譲住宅のうち、700戸の中層住棟はほぼ計画通りの設計で建てられ、十分な広さを確保した住宅を提供できました。しかし賃貸住宅の建設にあたって大きな問題が立ちはだかります。それは高度経済成長による建設費の増大でした。 
 建設費の増大は家賃設定に直結する重大な問題です。日本住宅公団は都市勤労者にあまねく住宅を供給することを目的として来たことから家賃を低く抑える必要がありました。
 建設費の高騰により、広い住宅を用意すれば手の届きにくい家賃設定になってしまい、家賃を抑えようとすれば狭い家で我慢してもらわねばならない……というジレンマを抱えてしまったのです。
 そこで、入居後数年間は家賃を低減する傾斜家賃方式の導入などソフト面での対策も行われましたが、根本的な解決策として多くの居住者から家賃を徴収し1人あたりの負担を抑えること、すなわち高層・高密度化が図られます。
 そこで導入された高層住棟ですが、建設コストが高く「家賃をおさえるための高層化がかえってコストの増大を招く」という皮肉な状況を呼びます。結果として、高島平団地の高層住棟は3居住室主体である当時の団地住宅の設計から外れ、1DK・2DKといった間取りが中心になってしまいました。

 
理想と現実の狭間で揺れ動き、生まれた「高層住棟」のいまの姿

理想と現実の狭間で揺れ動いた結果生まれた「高層住棟」のいまの姿 (撮影:わくせん・2018年)

 

 本来高層住棟は平面的な都市を立体にすることで、周囲に広大なオープンスペースを確保し良好な住環境を作り上げるための手段でした。しかし、急速な建設費の高騰はその理想を阻んでしまう形となり、今日にいたる高島平団地の形ができあがることになります。

日本住宅公団の苦心の果てに見えるもの 

 団地は狭いとよく言われますが、日本住宅公団は決して安かろう狭かろうの狭小住宅を濫造していたわけではありません。むしろ、日本住宅公団は良質な住宅を大量に供給することを追求していました。
 戦後復興から高度経済成長期にむかうにつれ生活水準も向上しました。それに合わせて日本住宅公団の良質な住宅を求める熱意の結果、住戸面積も拡大を続けます。日本住宅公団初期の設計では2DK・40平米程度しかなかった住戸は10年後の設計で3DK、専有面積は60平米に迫るまでになります。実は1970年代には建設された団地住宅の7割以上が3居住室型で占められるまでになっており、高島平団地でも中層住棟の区画においては3居住室型の住宅が提供できていました。
 しかし、高島平団地でも賃貸住宅の区画では建設費の高騰で住宅の質を下げざるをえませんでした。一方で大量供給には成功し、最盛期は人口が3万人にまで達していました。
 現在の高島平団地の人口は約1万5千人と半分にまで減っています。また、団地の老朽化と住民の高齢化も課題になっています。
 一方で、日本住宅公団の目指した理想の姿と、予想を超える経済成長がもたらした様々な要因によってそれが必ずしも叶わなかった姿とが同居している貴重な場所でもあります。
 皆様も是非高島平団地を歩いて、日本住宅公団の辿ってきた歴史と熱意を感じてみてはいかがでしょうか。

参考文献

日本住宅公団20年史刊行委員会編(1981)「日本住宅公団史」日本住宅公団.
高層住宅史研究会編著(1989)「マンション60年史 ―同潤会アパートから超高層へ」住宅新報社.
小西雅徳編(1998)「高島平 その自然・歴史・人」板橋区郷土資料館.
鈴木成文(2006)「51C白書 ―私の建築計画学戦後史」住まいの図書館出版局.
木下庸子・植田実編著(2014)「いえ 団地 まち ―公団住宅 設計計画史」住まいの図書館出版局.

日本住宅公団東京支所市街地住宅設計課・市街地住宅設備課(1970)「高島平の設計記録」,『日本住宅公団調査研究期報』30,1-15頁

東京都板橋区総務部区政情報課(2011)「こうぶんしょ館電子展示室67号「高島平団地ができたころ」」:http://www.city.itabashi.tokyo.jp/c_kurashi/038/038839.html (2018年1月8日閲覧)

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わくせん

車齢20年超の国産車(MT)を操り、全国に散らばる団地・レトロ自販機を追いかける人。時代の変化を乗り越えて往年の姿を残しているものを見つけたときは涙することもしばしば。最近は1940~50年代の公営住宅探しや、まちに潜む”妙なモノ”探しに休日の大半を割いています。