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【まちのすがた】住友の礎を築いたあかがねのまち―新居浜の発展と構造転換を考える:第1回

 日本の経済成長を支えてきた企業と企業から成り立ってきた企業城下町。愛知県の豊田市や茨城県の日立市をはじめとして現在も全国各地にあります。
 その中でも江戸期に発見された鉱山に端を発し、現在も工業都市としてあるまちが愛媛県新居浜市です。
 今回はエネルギー生産から重化学工業まで様相を変えて発展した一企業グループを支えてきたまちのこれまでと構造転換していくこれからを考えます。

 
新居浜のまちと別子銅山の位置関係

新居浜のまちと別子銅山の位置関係 (OpenStreetMapを元に作成) © OpenStreetMap contributors

 

全ては山の中の銅鉱山から

 愛媛県東部にある新居浜市。平成の大合併まで愛媛県内では県都松山に次ぐ2番目の人口を擁するまちでした。
 その原動力は「住友グループ」を中心とする工業都市としての発展です。住友グループというと、大阪を中心とする企業集団という印象が強いですが、近代の住友において今日に至る発展の礎を築いたのは新居浜での事業です。
 住友グループの新居浜における事業でまず初めに行われたのは銅の採掘でした。新居浜市の南の山には大きな銅鉱脈があり、江戸期にその場所に別子銅山が開かれたのです。
 1691年に開山した別子銅山は当初から住友家の支配下で採掘が進められていきました。
 はじめは旧別子山村にあたる地域で採掘を行っており、人口400人弱しかいない別子山村は開山10年で人口1万人のまちに成長しました。その後、明治新政府による官営化を免れ、銅の採掘は住友の手で続けられていきます。最盛期の明治後期には別子山に1万2千人もいたといわれています。住宅や学校はもとより病院、劇場、料亭、百貨店まであったそうです。このころの別子山は東予地方の文化の中心地でもあり、新居浜はまだ寒村でした。

 
現在の別子山(旧別子山村)。往時の賑わいはわずかな遺構をとどめるのみとなっている

現在の別子山(旧別子山村)。往時の賑わいはわずかな遺構をとどめるのみとなっている(撮影:鳴海行人・2013年)

 

 一方、このころの別子銅山は生産量が少なく、年間の収入も思うようなものがあげられていませんでした。さらに支出も多くなり、一時は別子銅山売却も視野に入っていました。しかし、別子銅山の支配人だった広瀬宰平の反対から、増産の積極策に転換します。
 広瀬はまず、お雇い外国人を招き、増産に向けた提案を行わせました。そして提案に基づいて上部軌道・下部軌道を設け、精錬機能を新居浜の海沿いにある惣開(そうびらき)に移転しました。ここからいよいよ新居浜の工業化が進んでいきます。
 そして、1899年に豪雨が山を襲います。土石流があちこちで発生し、多数の犠牲者を出しました。山では坑木や燃料用として木を切っていたのに加えて、銅を精錬するときのガスにより裸同然になっていたのです。
 この別子開山以来の惨事に対し、住友は採鉱機能を東平(とうなる)に徐々に移転させ、大正初期には別子山から撤退しました。
 こうして、新居浜が本格的に工業都市への道を歩み始めます。

 
惣開地区の様子

惣開地区の様子(撮影:わくせん・2017年)

 

住友グループの企業城下町へ

 新居浜の沿岸には、江戸期に住友の力で開墾新田が作られていました。ここを惣開(そうびらき)といい、1888年に洋式の精錬所が作られたことをきっかけに様々な施設が作られていきます。1893年に鉱山鉄道が開通すると輸送の窓口になり、その後1899年の豪雨をきっかけに鉱業所の本部が移転してきます。すると銀行や病院といった生活に必要な施設も建設されていきました。
 一方で精錬所は煙害問題をもたらします。そこで、時の責任者伊庭貞剛は精錬所を1896年に四阪島に移転します。伊庭は地域の問題解決に積極的に取り組み、別子山の植林事業にも取り組みます。その後、この植林事業は住友林業のおこりとなりました。
 このころ、採鉱拠点は東平に移転し、東平は最盛期には3800人が住むようになります。1930年には採鉱本部が下部軌道の起点である端出場に移り、閉山までは東平と端出場の二か所が採鉱拠点となっていました。
 そして同時に採鉱以外の拠点をより新居浜に移していきます。1925年には選鉱所を港に近い星越に移転し、新居浜港の拡張も行われます。この時の責任者である鷲尾勘解治(かげはる)は都市計画的思想を持ち、市街地に昭和通りを整備したほか、幹部向けの住宅である山田住宅や厚生施設、病院の分院の建設が行われました。

 

住友グループ・新居浜市それぞれの変化

 鷲尾の都市計画的思想は住友社内幹部の間では快く思われず、昭和の大恐慌をきっかけに事業優先の考えに戻ります。また、このころから「別子銅山がだめになれば大阪に事業を引き上げる」というのが社内幹部の考え方になります。
 一方でそのころには銅山の関連産業として、機械設備を制作する住友機械製作(住友重機械工業)と肥料製造を行う住友化学工業(住友化学)が設立されていました。これに鉱山と林業を加えてのちに「新居浜4社」と呼ばれ、グループ内で大きな影響力を持つようになります。

 
新居浜市内の工場

新居浜市内の工場 (撮影:わくせん・2017年)

 

 太平洋戦争後には住友財閥が解体され、住友グループとなりました。評議会などを置き、各社の結束はそのままにそれぞれが発展していきます。
 新居浜では住友化学が石油化学コンビナートを作り、事業拡大を行っていきました。しかし、1960年代後半に住友化学の大気汚染問題が表面化します。のどの痛みを訴える住民が出たり、農作物への被害が出始め、農家については一部の住民が市の斡旋で移転する事態になりました。
 さらに全国的な公害に対する意識の高まりもあり、1972年に住友化学、住友金属鉱山などの企業が新居浜市と厳しい公害防止協定を締結します。
 しかし、その公害防止協定締結の前日、別子銅山の閉山が突然発表されました。

企業城下町からの盟主から一企業への転換を志向する住友

 別子銅山閉山のニュースに対しては市や労働者から閉山回避の声が上がりましたが、調査の結果、銅鉱はほぼ掘りつくしていることが判明しました。こうして1973年に別子銅山は閉山となります。その後銅山跡は「マイントピア別子」となり、現在も観光施設として営業を続けています。
 そして銅山に関係していた事業も縮小していきました。住友化学の石油化学事業を始めとした新居浜の事業縮小により市内の経済は大きく落ち込みます。その結果、新居浜市は新しい都市づくりを志向するようになっていきます。
 その中で住友側も様々な施設づくりやイベントを行います。歴史資料館の整備やリーガロイヤルホテルの建設をはじめ、別子開抗300年記念行事の開催では図書館の寄贈や福祉基金の寄付が行われました。しかし、これらの事業は住友が新居浜から徐々に事業撤退をし、新居浜を住友の企業城下町ではなくするという意味もあったようです。
 その後は新居浜市が主導した別子銅山を利用した産業観光や市民からのまちづくりといった施策が今日にわたって行われています。

 
住友グループが寄贈した「新居浜市立別子銅山記念図書館」

住友グループが寄贈した「新居浜市立別子銅山記念図書館」(撮影:鳴海行人・2011年)

 

 では、別子銅山閉山前後に新居浜の人々の暮らしはどのように変わり、今後どのような道を志向していくのでしょうか。次回はそうした市民生活と新しい都市づくりに目を向けていきます。

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参考文献

結城三郎(1991)「「住友城下町」混沌 : 別子銅山300年の宴のあと ドキュメント」 ダイヤモンド社.
新居浜市(1999)「未来への鉱脈 別子銅山と近代化遺産」 新居浜市.
米澤和久(1993)「地域が自立する -3- 再起かける企業城下町 愛媛県新居浜市」,『エコノミスト』71-18,72-78頁
宇都宮千穂(2004)「新居浜における住友資本の事業展開と都市形成過程」,『歴史と経済』46-4,1-18頁
日本商工会議所(2006)「まちの解体新書 愛媛県新居浜市–「工場のあるまち」のオープンミュージアム 」,『石垣』26-1,45-49頁
新居浜市ホームページ:http://www.city.niihama.lg.jp/ (2017年11月4日確認)

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地域を俯瞰的に見つつ、現在に至る営みを紐解きながら「まち」を訪ね歩く「まち探訪」をしています。「特徴のないまちはない」をモットーに地誌・観光・空間デザインなど様々な視点を使いながら、各地の「まち」を読み解いていきます。