【観光】自然保護と地域振興の共存へ向けた長い道のり―世界遺産知床・斜里

 北海道の東部に突き出している知床半島。2005年に世界自然遺産として登録され、多くの観光客が訪れる場所です。一方で、乱開発を避けてきた歴史やヒグマとの共生などといった自然環境保護に長年取り組んできた地域でもあります。
 今回は自然保護と地域振興との両立に長い時間をかけて取り組む知床の取り組みを紹介しながら、観光地としての課題を考えたいと思います。

 
知床地図

道東北部のまちや空港と知床の位置関係です。知床半島の先端を囲むようにして引かれた緑色の線の内側が知床国立公園の範囲です (OpenStreetMapを元に鳴海行人作成) © OpenStreetMap contributors

 

最果ての地・シリエトク

 知床という地名は「大地の先端」を意味するアイヌ語に由来しており、アイヌ文化は古くからこの地に根付いていたといいます。
 江戸期にはニシン・サケ・マスの漁法が伝えられ、明治期には硫黄山の開発が行われました。そして入植もこのころはじまり、福島・山形・宮城出身者をはじめとする多くの人がウトロや岩尾別の地を開拓します。しかし、交通は海上交通か斜里からの絶壁の道に頼るしかない状況で、生活も大変厳しかったといいます。
 そして、本格的にこの地へ人が入るのは第二次世界大戦後のことです。北方領土や樺太から引き揚げてきた漁業者などのために、魚田を開発することになり、一気にウトロ地区の人口は5倍以上の300人弱にまで膨れ上がりました。そして1958年にはようやく斜里からの陸路が整備され、1962年には漁港も完成を見ました。

 
斜里町ウトロ地区と知床のマップ

斜里町ウトロ地区と知床の各観光資源との位置関係です。ウトロ地区から知床自然センターまでは5km、知床五湖までは14km、知床峠までは16kmあります。 (OpenStreetMapを元に鳴海行人作成) © OpenStreetMap contributors

 

 流氷の運んでくる栄養のある海水により、豊かな漁場であった知床沖の最寄りとなったウトロ地区は活況を呈します。漁業協同組合によって水力発電所やホテル、水産加工センターを早々と建設するなど地域の発展も進んでいきました。
 そんな知床の自然は1960年の映画「地の涯に生きるもの」によって紹介され、ウトロ地区が知床を訪れる際の拠点としても脚光を浴びるようになります。現在も知床観光の中心地として、旅館・ホテルが立ち並び、遊覧船・バスといった交通の拠点となっています。

観光ブームとウトロ地区の発展

 1958年には斜里町の中心部からウトロ地区へのバスが運行しはじめ、アクセスの下地が整います。そして1960年代には網走バスの再建を行っていた名古屋鉄道が地域の振興に携わるようになり、観光客を受け入れる素地が整っていきます。1962年には名古屋鉄道資本下の道東観光開発により観光船が就航し、1964年には知床一帯が国立公園になりました。
 さらに1965年には知床五湖の自然探勝路が整備され、自然を楽しむことのできる場所が増えていきます。観光船就航前には10万人に満たなかった年間観光客は1965年には28万人に、その後も1970年までに50万人弱まで伸びていきます。
 そして1971年に加藤登紀子氏による「知床旅情」が大ヒットすると知床ブームが起き、年間70万人もの観光客が知床にやってくるようになりました。1960年までは2軒しかなかったウトロの旅館・ホテルは32軒にまで増え、網走・斜里とウトロで客の奪い合いまで起きていました。ピーク時には釧網本線の斜里駅に1日3000人もの人が来ていたといいます。
 1980年にはウトロ地区から羅臼町中心部まで知床横断道路が開通し、観光客は年間100万人を突破しました。

 
知床峠

知床峠から羅臼町方面を見ると、北方領土の国後島が見えることがあります。上の画像では雲の間にわずかに覗いているのがわかります (撮影:鳴海行人・2012年)

 

自然保護の取り組み

 1960年代から70年代にかけては公害の発生により脱都会の動きが起き、レジャーブームが発生しました。そこには観光開発の動きもあり、1960年頃から知床岬に観光ホテルを建設する計画が立てられ、林野庁に払い下げの陳情が来ていたといいます。
 こうした観光開発から自然を保護する観点から、1964年に国は知床を国立公園として指定しました。これはこれまでの国立公園指定の考え方から大きく舵を切った施策であり、当時は大きな驚きと共に受け止められたといいます。

 
知床岬

知床岬は台地が広がっており、陸路で訪れたいと思う人も少なくないようです。しかし、陸路でのアプローチは困難かつ、ヒグマ対策を万全に行うことが求められます。一方でクルーズ船であれば気軽に岬の全景を見ることができます (撮影:鳴海行人・2012年)

 

 しかし、乱開発の魔の手は別のところへもやってきます。それは入植者の土地です。1972年には植民者も離農し、建設業に携わるようになっていました。その土地を観光業者が開発用地として狙っていたのです。
 この動きを察知した地元では町が中心となって離農地の買収を推し進めます。最初は町の予算で行っていましたが、1977年になると財政難に陥り、記者会見で「全国から寄付を募りたい」と呼びかけました。ここから始まったのが「知床100平方メートル運動」で、日本初のナショナルトラストでした。

自然を利用するか、保護するか

 「知床100平方メートル運動」は1口8000円で始まり、「知床に夢を買いませんか」というキャッチフレーズもあって少しずつ進められていきました。そして1982年には1万2千人もの人々により支えられるようになっていました。
 1984年には大規模な森林を持つ三井農林もオーナー制度を始め、自然保護の流れが強まっていきました。
 また、知床横断道路の開通により、路上駐車やごみのポイ捨てといったマナー悪化が目立つようになっていきます。そこで、ビジターセンターの建設やマイカーの流入制限により奥深い自然の秘境感を取り戻していこうという考えも現れるようになっていきます。
 一方で、知床の豊かな自然は漁業を潤し、林野資源を眠らせていました。漁業と観光が双方無関心で動いていく中、知床の森では1981年、1986年と国有林の伐採問題が持ち上がります。特に1986年の伐採に対しては林野庁と地元の間で深い対立が発生し、農水省と環境庁が異例のトップ会談を行うところまで行きました。結局1988年に伐採の全面凍結で解決を見ますが、自然保護への厳しい道のりはまだまだ続きます。そんな中、1988年には知床自然センターがオープンし、「自然トピアしれとこ管理財団」が生まれます。

 
知床自然センター外観

知床自然センター (撮影:知床財団

 

新たなステージに進む自然保護運動と新たな課題

 1997年に「知床100平方メートル運動」が募金目標の満額を集め終わり、2010年には472ha(東京大学本郷キャンパスの約5倍)もの土地が斜里町の管理下に入りました。そして1997年以降はこの土地で原生林の再生活動を始めています。
 三井農林の土地も同年に北海道に購入され、知床国立公園内での国公有地は98.7%にもなりました。
 そして翌年、斜里町と羅臼町は知床の世界遺産への登録を目指すようになります。このころ日本国内では白神山地と屋久島が世界遺産に登録されており、自然の豊かさでは引けを取らないとの判断からでした。
 この世界遺産登録には地域の漁業関係者から懸念の声が寄せられます。ひとつはトドの狩猟についてです。トドは国際的な希少種ではありますが、漁業者にとっては定置網を破る害獣として認識されており、被害額もかなりのものでした。そのため、世界遺産として新たな規制がかかると漁業にダメージがあるという懸念が出たのです。
 また、漁獲量に関しても、これまでの自主規制に加えての規制を国際自然保護連合からが求められ、登録後も登録海域の拡大により漁業が脅かされるのではないかという不安感が漁業関係者に広がっていきました。そこで環境省と北海道は2005年4月に新たな漁業規制は行わないことを確約し、海域管理についても同意の下で行うとしました。

 
知床沿岸の漁業

知床というと観光のイメージが強いですが、豊かな漁場でもあります (撮影:鳴海行人・2012年)

 

 こうした紆余曲折がありながらも、2005年7月には世界遺産登録が決定されました。

自然と地域振興の共存へ向けて

 世界遺産登録後も、基本的に自然保護の観点から施策が進められていきます。
 ここで重要な役割を担っているのが知床財団です。
 元々は「自然トピアしれとこ管理財団」でしたが、2003年に斜里町は知床の自然を管理する団体を整理し、知床財団に一本化しています。2006年には羅臼町も知床財団に出資することで、知床全体の野生生物研究と対策を財団が担っていくことになります。2007年には国立公園の管理団体として指定を受け、現在では知床五湖の施設の運営を行っています。
 特にヒグマ対策は知床財団にとっては大きなテーマとなりました。1994年までは50件前後しかなかったヒグマの目撃情報が、95年になると200件まで増え、98年には8月までに400件を超えました。同年には多くの観光客が訪れる知床五湖への立入り制限がヒグマ出没によって長期にわたって行われることとなり、観光への影響も心配されました。
 しかし、「新世代」と呼ばれる人間を恐れないクマが増え、観光客からソーセージをもらうクマまで出現しました。1999年にはクマがウトロ地区を堂々と歩き、射殺されるという悲劇も起こっています。
 世界遺産登録後はヒグマ対策もより一層のものが求められるようになりました。観光客がさらに増え、クマへの餌付けも目立つようになっていったのです。それにより、クマが人里に近づく機会が増え、2012年には1500件もの目撃情報が寄せられています。

 
地上遊歩道ヒグマ足跡

知床五湖の地上歩道で発見されたヒグマの足跡です。観光客の安全のため、こうした足跡が見つかると地上歩道は閉鎖となります (撮影:知床財団

 

 当然クマと人間との距離が近づけば人間が襲われるリスクや施設の破壊と言った被害もあります。そのため、環境省と知床財団では知床の自然を利用する際のルールを策定し、観光客や登山客に徹底するように指導を続けています。
 また、知床五湖では1995年以降、観光客が安全に楽しめるよう、展望台や木道の整備を進めました。しかし、2004年にはクマの出没により1か月以上の閉鎖を余儀なくされ、高架木道の整備が提言されました。この高架木道は3.5mの高さに作られ、ヒグマ用の電気柵を設置することで安全な利用を担保しています。この木道は2006年から2010年に整備され、現在では800mの長さになっています。

 
知床五湖高架木道

知床五湖の高架木道です。植生に配慮したルートとなっており、独特の外観は新たな美しい景観を生み出しているようにも見えます (撮影:鳴海行人・2012年)

 

 地上歩道については、利用調整地区制度が導入されました。3つの期間で利用方法が異なります。

  • 植生保護期:250円を払い、事前講習を受けて散策できる
  • ヒグマ活動期:2500円~5000円のガイドツアーで散策できる
  • 自由利用期:自由に散策できる
 
知床五湖・地上歩道

知床五湖の地上歩道の様子です。ちょっとしたハイキングコースの趣があり、夕暮れ時が迫ると写真のように暗くて鬱蒼と茂る森の中の散策が楽しめます (撮影:鳴海行人・2012年)

 

 高架歩道と地上歩道と2つの楽しみ方を提供しつつヒグマをはじめとした自然と観光の共生を図っているのです。

 
知床五湖

地上歩道から見た知床五湖と知床半島の山々 (撮影:鳴海行人・2012年)

 

 知床五湖以外でも緩やかな利用規制を行っています。1998年には「奥知床」と呼ばれるカムイワッカの湯の滝へのマイカー乗り入れが規制されはじめ、翌年からは徐々にその期間を延ばしていっているのをはじめ、知床の山々へ入る際には装備に条件が付けられたり、知床岬へ船などで侵入する者がいないか監視が行われています。
 こうした地域の自然保護をベースとした施策により知床の自然は保護され、観光業・漁業との共存が図られています。

 
カムイワッカの滝

カムイワッカの湯の滝の下流はカムイワッカの滝として海に直接注ぎ込み、美しい大地の風景を見せてくれます (撮影:鳴海行人・2012年)

 

これからの知床、課題と期待

 知床の豊かな自然は醸し出す「秘境感」により多くの人々を引き付けてきました。
 この「秘境感」の維持には地域住民の多くの犠牲と努力の歴史があります。もちろん世界遺産ブランドの利用や観光産業の振興を図りたいとの思惑もありますが、知床の自然を「秘境」として保護しつつ楽しんでもらいたいという思いは多くの地域住民に共通するものではないでしょうか。
 また、認知度だけでなく、アクセスも容易になってきました。札幌からの直通バス運行やレンタカーの低廉化は知床観光を後押しするものです。もちろん世界遺産登録直後の2005年の入れ込み客数ほどではありませんが、依然として年間100万人以上の観光客が訪れています。そのため、地域にとって観光は大きな産業であり、こちらの需要の冷え込みは地域の経済に打撃を与えます。
 そのため、自然と地域振興の共生というのは地域にとっては重要な課題であり、これからも様々な形で模索が続けられていくものであると考えられます。今後はエコツアーや夏季に集中する観光客を他の季節への分散を図るためにコンテンツのさらなる導入といったことが期待されます。
 また、観光客の側も地域の事情を少しでも理解したうえで知床の雄大な自然を楽しむとより深い観光ができるのではないでしょうか。
 今後も自然保護と観光が共生する地として、最先端の自然保護活動と観光の施策が期待されます。

 

知床の自然

 

参考文献

斜里町(1970)「斜里町史 第2巻」斜里町.
斜里町(2004)「斜里町史 第3巻」斜里町.
俵浩三(2004)「知床はどのようにして国立公園となったのか」,『モーリー』10,15-17頁
山中正実(2004)「人もヒグマも暮らすことのできるシリエトクを目指して」,『モーリー』10,27-31頁
則久雅司(2010)「野生を育む 知床五湖 共生へ 新しい 二つの歩き方」,『国立公園』688,28-30頁
田中俊徳(2014)「自然観光資源の管理をめぐる順応的ガバナンスの研究 ―知床五湖利用調整地区導入における合意形成過程の事例―」,『人間と環境』40-3,20-35頁
読売新聞(1971)「ひでぇとこ旅情 がんばりレジャー(2)」,『読売新聞』1971年7月29日号 夕刊,10頁
読売新聞(1971)「にっぽん”レジャー教”」,『読売新聞』1971年8月21日号 夕刊,5頁
読売新聞(1977)「”知床旅情”SOS」,『読売新聞』1977年3月3日号 夕刊,10頁
日経産業新聞(1984)「三井農林、知床のカラマツ林オーナーを募集―1口40万円」,『日経産業新聞』1984年7月21日号,9頁
読売新聞(1986)「なぜいま原生林伐採」,『読売新聞』1986年8月19日号 朝刊,9頁
読売新聞(1986)「知床伐採凍結へ前進」,『読売新聞』1986年10月9日号 夕刊,19頁
読売新聞(1988)「知床伐採中止 反対派の運動実る」,『読売新聞』1988年12月11日号 朝刊,11頁
朝日新聞(1997)「道、来月280ヘクタール購入へ 知床国立公園内の民有地」,『朝日新聞』1997年2月25日号 朝刊道内地域版
日本経済新聞(1997)「知床100平方メートル運動終了へ―今年前半、目標額達成の見通し。」,『日本経済新聞』1997年3月7日号 北海道版朝刊,38頁
朝日新聞(1998)「流氷観光開いた砕氷船(パノラマの彼方 名鉄物語第1部:5)」,『朝日新聞』1998年9月15日号 朝刊愛知版
朝日新聞(1998)「ヒグマ受難(続・北の火の山 知床硫黄山・羅臼岳:13)」,『朝日新聞』1998年10月1日号 朝刊道内地域版
朝日新聞(2000)「お盆中もマイカーだめ 知床国立公園の規制スタート」,『朝日新聞』2000年7月30日号 朝刊,2頁
朝日新聞(2003)「遺産登録の功罪(知床 世界自然遺産へ:4)」,『朝日新聞』2003年8月2日号 朝刊北海道版,2頁
朝日新聞(2005)「規制の動き、漁協反発 知床の世界自然遺産登録」,『朝日新聞』2005年2月16日号 朝刊社会面,2頁
朝日新聞(2005)「知床世界遺産「新たな漁業規制なし」確約 環境省・道、4漁協に公文書送付」,『朝日新聞』2005年4月1日号 朝刊社会面,2頁
知床財団HP:http://www.shiretoko.or.jp/ (2017年7月1日確認)
しれとこ100平方メートル運動HP:http://100m2.shiretoko.or.jp/ (2017年7月1日確認)

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鳴海 行人
matinote仕掛人・ライター・マネージャー(編集長) 90年生まれのまち探訪家。 地域を俯瞰的に見つつ、歴史を掘り下げて現在の姿への系譜を探りながら、まちを観察をしています。地誌・地方都市・総合交通体系・ロードサイド・観光・空間デザインなど様々な視点を駆使し、まちを読み解くことがひとつの楽しみです。