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たばこ葉で潤ったまちの歴史ー湧水とたばこのまち・秦野:第2回

 前回の記事では、秦野市は3つの地区に分かれるという話をしました。今回から2回にわたって、それぞれの地区について掘り下げていきたいと思います。今回はまず、中心部たる秦野地区、特に中心部となっている本町について2回にわたって取り上げます。

 
秦野市中央部の地図

秦野市の中央部は3つの地区に分けられます。今回取り上げる本町が属する本町地区は1955年まで秦野町と称していました(OpenStreetMapを元に作成) © OpenStreetMap contributors

 

地形から見る秦野市中心部

 秦野地区は旧東秦野村(東地区)、旧秦野町(本町地区)、旧南秦野町(南地区)から成り立ちます。

 東側には弘法山や善波峠があり、北側には丹沢山系、南側は渋沢丘陵があります。全体的に平地は少なく、傾斜地が多いことが特徴です。
 このあたりは本町を中心としています。本町は秦野市の商業・行政機能が集中しているエリアでもあり、水無川と葛葉川に挟まれた台地の上に市街地がみられます。

 秦野の特徴である湧水は、水無川より南で見られます。弘法の清水や今泉公園があり、市民の憩いの場になっています。

 

本町は水無川と葛葉川にはさまれた河岸段丘の上に位置していることがわかります (DAN杉本氏制作のカシミール 3Dより)

 

 市街地は本町・片町と言われており、商店街が通り沿いに広がっています。ちらほらと残っているち古い建築がレトロ感を醸し出してはいます。一方で、商店は活気がありません。

 このあたりで栄えているのはイオン秦野店(ジョイフルタウン秦野)です。また、国道246号線や県道71号線沿いに大型店舗があります。買い回り品(耐久消費材など)に関しては、厚木・海老名エリアや小田原のダイナシティ、横浜に向かう傾向があります。

 住宅地はまんべんなく広がっていますが、本町に大きなマンションがいくつかあります。また、住宅開発地として、南側の丘には神奈川県が住宅開発をした南が丘が、北側の葛葉川の段丘上には住宅都市公団が整備したくず葉台団地がそれぞれあります。

 
秦野市南が丘

南が丘の様子です。くずは台、南が丘ともに神奈川県が中心となって住宅建設を行いました (写真:鳴海行人・2016年)

 

 主な道路は県道71号線と国道246号ですが、国道246号は交通量に対して車線が少なく、昼間は常時のろのろ運転を余儀なくされます。また、旧矢倉沢往還や本町から西北西にいく道もよく利用され、市街地も車が多く走っています。

タバコからはじまる本町の歴史

 ここからは本町の歴史にクローズアップをしてみましょう。

 本町の歴史は市場から始まっています。

 江戸から足柄を越えて静岡へ向かう矢倉沢往還と東海道から北上して大山へ向かう秦野道が交わるところで交易が生まれたのです。また、秦野市内ではタバコ葉の栽培が盛んで、タバコ葉の取引も本町の市場(当時は曾屋の市場と言われていた)で行っていました。

 明治期になると、明治の大合併により、曾屋にある市場でタバコ葉を取引している各町村が「秦野」という地名を名乗り始めます。秦野町はもちろんのこと、東、西、南、北、上の「秦野」が誕生しました。

 そして、コレラが流行したことで、本町には簡易水道が引かれます。これは横浜・函館に次ぐ3番目の上水道整備で、愛知県常滑製の陶器を使ったといいます。
 このころ、東海道線へタバコ葉を輸送するために湘南軌道が二宮まで開通しました。

 

湘南軌道は「軽便」として親しまれ、現在もその跡をたどることができます (写真:鳴海行人・2016年)

 

 しかし、まちの構造は昭和期になると大きく変わります。

 まずは小田急線が開通しました。当初は本町地区や本町の東に駅を設ける予定でした。しかし、南秦野町(当時)の誘致運動もあり、現在の位置に大秦野駅ができます。この「大秦野」という駅名は湘南軌道に「秦野」駅があったことによるものでした。
 そして、小田急と秦野と平塚を結ぶバス輸送が秦野自動車の手で始まると、湘南軌道は廃線となってしまいました。

 その後、1919年に関東大震災が起きると、市内各地で大きな被害となりました。山間部での崩落や震生湖の成立をはじめ、本町もかなりの被害に遭います。これを契機に広い道路を整備し、商店も耐震のものに変えました。現在残っている本町周辺の道路の広さは関東大震災の後に整備されたものであり、レトロな建物も関東大震災後に建てられたものです。

 
秦野市本町に残るレトロ建築

本町にはいくつもレトロな建築物が残っています。歩いて探してみるのも一興です (写真:鳴海行人・2016年)

 

タバコ葉からの産業転換

 タバコ葉に始まった本町の振興ですが、タバコ葉の精算は徐々に衰退していきます。
 昭和期になると秦野葉と言われる従来種のタバコ葉は売れなくなっていきました。これはタバコ葉がキセルで吸うものから現在のような煙草へ変化したことに伴うものです。
 明治期から昭和期にかけて安定した現金収入をもたらしたタバコ葉も戦前の1934年から減少し、1950年代から60年代にかけては作付け面積が30%以上減少しました。

 時代に合ったタバコ葉の生産のために品種改良を行うことや”たばこ大学”を作って産業振興しようとする取り組みが行われてきましたが、タバコ葉の生産は急速にしぼみ、1985年にはタバコ葉の作付けはゼロとなりました。

 さて、作付けを行わなくなったタバコ畑はどうなったのでしょうか。
 その多くは工場用地・住宅地へと転換していきました。1960年代には曾屋地区で約30%あまりの畑が売却されたというデータがその事実を示しています。

高度成長期までの秦野中心街の変遷を追ってみて

 高度経済成長期までの秦野中心部は本町を中心としてまちが成立していたことがうかがえたかと思います。しかし、本文中でも述べた通り、タバコ葉の生産縮小やこの後起こる商業構造の変化が本町の今日の状況を生んでしまっています。

 次回は本町の今日に至る変化の経緯に迫りたいと思います。

 

秦野市本町の様子

[参考文献]

秦野市史編さん委員会(1985)『秦野市史 第4巻』秦野市.
秦野市史編さん委員会(1986)『秦野市史 第5巻』秦野市.
秦野市史編さん委員会(1986)『秦野市史 第6巻』秦野市.
「図説・秦野の歴史」編集委員会(1996)『図説 秦野の歴史 1995』 秦野市(管理部文書課市史編さん担当).
井上卓三(1978)『秦野たばこ史』(財)専売弘済会文化事業部.
秦野市HP:http://www.city.hadano.kanagawa.jp/www/index.html(2017/3/26確認)

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地域を俯瞰的に見つつ、現在に至る営みを紐解きながら「まち」を訪ね歩く「まち探訪」をしています。「特徴のないまちはない」をモットーに地誌・観光・空間デザインなど様々な視点を使いながら、各地の「まち」を読み解いていきます。