秩父地方の中心、秩父市の市街地は神社を中心に発展してきました。本記事では秩父市街地のなりたちと中心市街地の象徴的な商業施設である矢尾百貨店について取り上げます。
秩父市街の概況についてはこちらの記事を参照してみてください。
秩父市街地のなりたちと現在の形
秩父市街は元々、大宮郷と称し、大正期までは「大宮」の地名を主に用いていました。大正期に秩父町と改称した理由については諸説ありますが、この頃に開通した秩父鉄道ではすでに「秩父駅」という呼称が使われています。
秩父市街は秩父神社を北端に南にある御花畑駅方面へ広がり、スーパー「ベルク」東町店の他、呉服・電器・飲食・歓楽の店が建ち並びます。また、特徴的なのは、古い建築物がまとまった数で残っていることです。しかし、閉店した店も少なく無く、いまではかなりひっそりとしています。
元々の街道筋は国道299号線―県道73号線の道筋で、現在メインとなっている国道140号線は戦後に開通しています。このため、県道73号線沿いには銀行や矢尾グループの商業施設が立ち並んでいます。
市民の買い物の場としてにぎわう矢尾百貨店
秩父市街を語る上で欠かせないのは矢尾百貨店の存在です。秩父のように大きな都市から離れ、かつ人口が10万人を切る都市において百貨店やイオン・イトーヨーカドー・アピタの大型店舗のような総合スーパー(GMS)クラスの商業施設をあまりみることはありません。むしろロードサイドの専門店にプラスしてウニクス秩父のように食品スーパーを併設したショッピングセンターがあるのみという形のまちが多くなります。
しかし秩父の場合は矢尾百貨店という大型商業施設が市民の支持を得て存在しています。さらに言えば、現在でも多くの人で賑わっています。埼玉県内でいえば春日部市の西武百貨店が撤退したこととは対照的だといえるでしょう。そんな矢尾百貨店について、本項ではさらに掘り下げてみたいと思います。
矢尾百貨店は「百貨店」とは名乗っているものの、現在「百貨店」の基準として用いられる日本百貨店協会の加盟店舗ではありません(旧百貨店法の認可は受けています)。
矢尾百貨店の歴史は古く、江戸時代まで遡ります。近江商人の流れをうける日野商人が開いた造り酒屋『升屋利兵衛』がルーツとなっており、その後に呉服・食品・雑貨の商いを始めています。現在も造り酒屋が併設されていた際の倉庫や祠がそのまま残っており、また経営陣も滋賀とのつながりが深いようです。
明治時代には有名な「秩父事件」が起きました。『升屋利兵衛』は先述の通り、元々秩父の外どころか滋賀の日野商人で、当然秩父事件では襲撃の対象になってもおかしくはありません。しかし、事件の首謀である秩父困民党からは開店をすすめられるほどであり、関係は非常に良好であったといいます。
これは『積善積徳』を社是として地域の住民が困っている時は助け地域の貢献を考えてきたことの積み重ねなのでしょう。
その後、皆野に支店を出したり経営危機も乗り越えたりするうちに大正時代を迎えます。
明治時代末期に「合名会社矢尾商店」に屋号を改める頃には経営も安定しはじめ、大正時代になると埼玉県内で初となる鉄筋コンクリート造の3階建ての店舗を建築することになり、このとき、物品販売を中心した事業体制に切り替えています。
その後は戦前戦中と激動期を乗り越え、昭和45年に商店の改築、増床・百貨店化を行いました。また、同時期に酒造業は「矢尾本店」と改めるなど分社の上移転しています。
現在、矢尾百貨店の売り場面積はカルチャー館と合わせて7,791㎡です。また、少し離れた所にはベスト電器の店舗が、皆野町には家具館があります。
本館は5階建てで、1階:食品と婦人服・2階:婦人服・3階:紳士服・4階:子供服と外商部・5階:レストランと市民向けの貸しスペースとなっています。特に外商が強く、友の会のコーナーでは商品券を買い求める客が多かったことが印象的でした。また、麦茶のサービスや屋上遊園などちょっとノスタルジックなところもあり、地域に根ざした大型店舗らしさを感じます。店員だけの閑散としたフロアはなく、主にミドル層(30代)以上が買い物を楽しんでいる様子が見られました。実に市民に親しまれている「百貨店」であるという印象です。
カルチャー館には秩父関連書籍を扱うコーナーがあり、こちらでも地域密着を感じると共に、賑わいもあり、親しまれている印象を受けました。これも江戸時代から重ねてきた歴史のもたらしたものなのでしょう。
同じ大型の商業施設としてはウニクス秩父がありますが、矢尾百貨店とは店舗構成が異なり、ウニクスは矢尾百貨店がカバーできない若者から若いファミリー向けの店舗が多く、棲み分けが出来ているように感じます。
秩父市の中心性に関する考証と今後の見通し
さて、秩父市の話に戻ります。
秩父市中心街は対象となるエリアこそそこまで大きくないのですが、地域の中心性を持っているのはなぜなのでしょうか。
おそらくは秩父地域が他の地域の中心部と行き来するのに交通が便利ではないことが大きく影響しているように思います。近隣の圏域の中心となると熊谷か所沢となりますが、熊谷まで40km、所沢まで55kmあり、どちらも山あいを通ることから電車でも車でも1時間以上かかってしまいます。このことが秩父市にある程度の中心性を持たせているのではないでしょうか。
また、人口規模が大きくないため、そこまで郊外ロードサイドが発達しなかった(道路事情がよくないことおよび大規模商業地をつくるほどの土地もなかった)ことが現在の状況を生み出していると言えそうです。
こうした歴史と地勢を鑑みれば、今後も秩父の中心性というのは縮小傾向なりとも保たれていくと考えることができそうです。
一方で近年は産業遺産の見直しやパワースポットへの注目が進んでおり、石灰採掘で栄え、巡礼地が多い秩父の地域振興には追い風が吹いています。また、西武鉄道が観光関連施策に注力しており、「秩父 金よる旅」「週末ちち部」というキャッチコピーでの宣伝、観光列車の導入(予定)が行われていることも明るいニュースとしてあげられます。
地域資源をきっちりと考証し、活かすことによって新たな活路を見いだすこともできるように思われるので、地域のがんばりに期待したいところです。
参考資料
今昔マップ on the web:http://ktgis.net/kjmapw/
矢尾グループホームページ:http://www.yao.co.jp/
西武鉄道ホームページ:http://www.seibu-group.co.jp/railways/
ぶぎんレポート No.140 2011年1月号
他、現地調査などによる
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