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「仙台郊外」の象徴・泉パークタウン、まちづくりの光と影

  仙台市の市街地から北へ5km強のところにある仙台市泉区。高度経済成長期以降、丘陵地を切り開く大規模開発が行われ、仙台のベッドタウンとして発展してきました。区内にいくつもある大手デベロッパーが参画した開発事業のうち、特に有名なものが、三菱地所が造成、開発した「泉パークタウン」です。

 前回は同じ泉区でも「独立都市」を志向した旧泉市の置き土産「泉中央」地区を取り上げましたが、今回はそうした泉市の動向とは別の形で「独立都市」を目指した「泉パークタウン」について取り上げます。

40年にわたって開発され続ける泉パークタウン

 泉パークタウンは仙台市泉区にある大規模ニュータウンです。泉区域の中では中心部にあたり、総開発面積は1,070haと、区内にある住宅団地の中では最大規模、全国的に見ても民間事業では最大規模のニュータウンです。日本有数の不動産事業者である三菱地所が開発を手掛けており、テレビCMなどでもしばしば紹介されています。そのため、仙台都市圏以外での知名度が高いのも特徴です。

 

黒枠内が泉パークタウンエリア(概略)。カッコで分譲開始時期を示したが、地区によってその時期に差があることがわかる (OpenStreetMapを元に作成) ©OpenStreetMap contributors

 CMでは最新の開発地区である紫山地区が紹介されることが多く、そちらのイメージが先行しています。しかし、事業開始は1969年と古く、現在まで40年以上にわたって開発を続けられている「歴史あるニュータウン」でもあります。分譲時期も、開発区域が広範にわたることもあり、1974年に第一弾として高森地区(東)の分譲を開始したのち、1980年に寺岡、1985年に高森(西)、1991年に桂、1997年に紫山と、長い時間をかけて宅地分譲を進めています。一部地区では分譲マンションが存在するなど、地区によってその時代時代を反映した住宅地が広がっています。また北側にはインダストリアルゾーンとして「明通」があり、こちらも1980年の分譲開始から徐々に拡大を続けています。

 

高森地区の様子。泉パークタウンの中には年季の入った住宅地も少なくない(撮影:かぜみな・2018年)

 

泉区の「代表的住宅地」、でも…

 こうした形で泉区の代表的な住宅地として成長した泉パークタウンですが、一方で独立志向を追求したこともあり、実は泉区内全体とのまとまりからは外れた存在となっています。

 代表的なのが、仙台市中心部への住民流動です。泉区の中心は地下鉄南北線の泉中央駅で、泉パークタウン内の路線バスは、宮城大学を発着する便を除き基本的には泉中央駅を発着します。泉中央・泉パークタウン地域活性化協議会が会員制で走らせている巡回バスも泉中央駅を発着しており、公共交通を利用するルートだと、泉パークタウンから泉中央駅までバス、そこから地下鉄南北線で仙台中心部方面へというルートを描くことができます。

 しかし、このルートでは乗り継ぎの関係で運賃が高くつき、泉パークタウンから泉中央駅へ向かう道路も限られるため、朝夕は泉中央駅周辺で渋滞が頻発するといいます。こうしたストレスのたまりやすい交通ルートに2016年、転機が訪れます。泉パークタウンの中心部を南北に縦断する幹線道路「県道264号大衡仙台線」の整備が進み、2016年に仙台都心部へ直結する北山トンネルが開通したのです。

 

仙台中心部と泉パークタウンを結ぶ大動脈となった「仙台大衡線」(撮影:かぜみな・2018年)

 

 このことで、従来から泉中央駅周辺の渋滞と乗り継ぎ運賃の高さというストレスから解放されることもあり、仙台中心部へは自家用車で直接向かうという住民が多くなっているようです。

 もともと泉区は仙台市内でも自家用車の保有率が高い地区ではありますが、泉パークタウンは泉中央駅から向かう「泉区」の住宅地ではなく、仙台中心部と直接つながる「仙台の郊外」として機能していることが理解できます。

 この現象は、泉パークタウンに限らず、泉区内の住宅地(特に西部の住宅地で)で起きている現象であり、泉中央駅の求心力が上がらない理由です。泉パークタウンが特別なのは、仙台中心地と直結していることだけでなく、「泉パークタウンそのものが泉中央駅周辺に匹敵する求心力を持つ」ということでしょう。

 結果として泉中央駅と泉パークタウンの2核が泉区内に散らばる結果となり、双方が地域拠点を目指したために、どちらも人口ほどの求心力を得られないという結果になっています。

1000haもの大規模宅地開発はなぜ実現したのか

 そもそも、東京の不動産事業者である三菱地所が、なぜ仙台の郊外、さらにいえば当時は誰も注目しなかったような仙台市外の丘陵地を開発の舞台として選んだのでしょうか。

「泉パークタウン」の誕生には、三菱地所が1960年代に置かれていた状況が大きく関係しています。当時旧財閥系の不動産会社として三井不動産とライバル関係にあった三菱地所。しかし、不動産販売事業では三井不動産に大きく後れを取っていました。そのため、大都市での土地買収で苦戦し、三菱地所は有力不動産事業者がまだ目を付けていなかった地方の中核都市に目を付けたのです。

 そんな経緯もあり、三菱地所は仙台の地元不動産会社から現在の泉区向陽台に当たる地区の開発の誘いを受けていました。その誘いを受けて1969年春に仙台市泉区(当時は泉町)向陽台地区を視察したのが「泉パークタウン計画」のそもそものきっかけとなります。一方宮城県からも、人口が集中し、特に北部地域ではニュータウンや団地が増え始めていた仙台地区での宅地開発の要請を受けており、当時から地方に目を向けていた三菱地所に対する地元の期待が大きかったことが伺えます。県からは現在の加茂団地の開発を打診されていましたが、結局向陽台も加茂団地もその要請を断ることになります。

 しかし、仙台視察に向かった当時の三菱地所社長中田乙一は、将監団地の西側に隣接する広大な高台の南向き斜面に興味を持ち、のちに仙台市中心部から30分以内で、仙台都市圏の発展方向に合わせた開発が可能であることが決め手となり、この地区の開発が正式に決まることになります。これが現在の泉パークタウンエリアとなっていくのです。この予定地の北側では宮城県が大規模工業団地の整備計画を持っていたこともあり、宮城県としても大いに歓迎するものであったといいます。

 土地買収と同時に行われたのが広大な土地を有効活用する新しい都市の在り方の模索でした。その結果として、生活空間のすべてに快適性(アメニティ)を追求した、”人間らしい暮らしのできる街づくり”、そして「都市機能と自然との調和」をテーマとしたまちとしての「泉パークタウン」が構想されます。さらにそこに仙台の都市機能を補佐しつつも、ある程度独立した複合都市としてのまちの姿も形作られていくことになります。

住宅開発にとどまらない泉パークタウンの「まちづくり」

 三菱地所は「住宅団地」だけでない取り組みもいたるところで行っていました。泉パークタウン北端にあたる明通地区には「泉パークタウン工業団地」が立地し、東北自動車道の泉インターチェンジに近いという立地を活かし、食品卸の国分、凸版印刷などの大手企業の工場や物流施設を誘致しました。また、住民のレクリエーション施設や、交流人口の増加を期待したゴルフ場の建設も行われています。

 

職住近接を実現するべく建設された泉パークタウン工業団地(撮影:かぜみな・2018年)

 

 さらに泉パークタウンのまちづくりは「住むところ」と「働くところ」の整備にとどまらず、1990年代以降は泉パークタウン住民の利便性を向上させ、仙台都市圏からの集客も見据えた施設を次々に作っていきます。泉パークタウンの中心部には「仙台泉プレミアムアウトレット」、「泉パークタウンタピオ」といった大規模商業施設や「仙台ロイヤルパークホテル」、「宮城県図書館」、「宮城大学」といった公益施設も建ち並びます。宮城大学は厳密に言えばタウンエリア外とはなりますが、いずれも泉パークタウンの住民でない利用者が想定できる施設で、既存の都市インフラに依存するだけでない、自らも周辺から人を呼び寄せる都市としての整備、つまり「ベッドタウン」ではない「独立都市」としてのまちづくりへのこだわりが感じられます。

 

商業施設が集まる中心部。右が「仙台泉プレミアムアウトレット」、左が「泉パークタウン・タピオ」。写っていないが右奥には「仙台ロイヤルパークホテル」もある(2018年・かぜみな撮影)

 

 特に2008年に開業した「仙台泉プレミアムアウトレット」は、仙台都市圏全体からの集客を明確に狙い、同日隣接地に開業した日常生活向けのショッピングモール「泉パークタウンタピオ」と合わせて、仙台都市圏に影響を与える商業ゾーンを形成しました。

 

国家プロジェクトに呑み込まれる「泉パークタウン」

 当初は三菱地所の単独の事業で始まった泉パークタウンでしたが、開発が進んでその存在感が高まるにつれて、行政としてもその影響を無視できないものとなっていきます。

宮城県は、まえに述べたように、仙台市泉区(当時は泉町)の北部にあたる大衡村や大和町にまたがるエリアに工業団地の造成計画を持っていました。奇しくも三菱地所がはじめて仙台を視察に訪れた1969年に調査が始まったこの「仙台北部中核都市」計画は、仙台を軸にする一点集中型の都市構造を改め、多角的な構造を持った広域仙台都市圏を作るため、職住近接の大規模内陸工業団地を建設しようというものでした。直接的に関係のない計画とはいえ、三菱地所が現在の場所を開発地として決めた理由として、この計画が存在したことも理由の一つとしてはあったようで、お互い意識はしていたようです。

 この「仙台北部中核都市」は、構想初期こそ金属加工や輸送機械の工業団地を想定していましたが、1983年に成立した「高度技術工業集積地域開発促進法」(通称テクノポリス法)の指定を目指し、構想は先端技術産業の誘致や産・学・自治体の協力路線といった「テクノポリス」を意識したものへと次第に変化していくことになります。

 しかし、テクノポリスへの指定を目指すにあたっては問題がありました。当時の通産省が示したテクノポリス開発指針のうち、仙台北部中核都市が計画された大衡村と大和町だけでは「高度技術開発企業か高度技術利用企業に成長しそうな企業の相当数の集積」を満たすことができなかったのです。そこで、宮城県は近接する自治体を含める形での指定地域の線引きを考えるようになり、最終的に大郷町、富谷町(現:富谷市)、泉市(現:仙台市泉区)、仙台市までを巻き込んだ計画へと発展していきます。

 

大衡村にあるトヨタ自動車東日本。仙台北部中核テクノポリス開発計画によって進出した工場だ(撮影:かぜみな・2018年)

 

 ここで、泉市にあった「泉パークタウン」がにわかに注目されることになります。仙台北部中核都市の造成が始まる前から泉パークタウンでは先述の通り工業区画を用意して分譲を行っていました。醸成されつつあったブランドイメージと東北自動車道泉インターチェンジ至近という利便性が後押しする形で、泉パークタウンの工業地区の分譲は比較的好調に推移しており、また「職住近接」や「独立した都市圏の形成」といったテクノポリスのコンセプトも泉パークタウンとの親和性が高かったこともあり、三菱地所の開発事業である泉パークタウンはいつしか宮城県が進める仙台北部中核テクノポリスの中核プロジェクトの一つとして扱われるようになっていきます。

 

仙台北部中核テクノポリス計画にかかわる工業団地群。赤字の自治体はテクノポリス法により指定された自治体(指定時は泉市も存在・富谷は市制未施行) (OpenStreetMapを元に作成) ©OpenStreetMap contributors

 

 1986年には研究開発や国際交流のための各種施設を集中的に立地させ、仙台北部中核テクノポリスの形成を支援しようとする「二十一世紀プラザ」エリアの整備が泉パークタウン内に決まり、1990年には高森の中央センター地区に中核施設となる「21世紀プラザ研究センター」がオープンしています。その後のその周辺でこの計画に基づいた施設の整備が進み、先述した仙台ロイヤルパークホテル(1995年開業)や宮城県図書館(1997年開業)、宮城県運営の公立大学である宮城大学(1998年開業)なども、この「二十一世紀プラザ」構想に関連して整備されたものです。

 

21世紀プラザ計画の一環で中心部から泉パークタウンへ移転してきた「宮城県図書館」(撮影:かぜみな・2018年)

 

 言い換えれば仙台北部中核テクノポリスに組み込まれたことで「泉パークタウン」が単なる郊外の住宅開発地にとどまらない、エリアの外からも人が訪れるような性格を持つようになったといえます。

2核化の背景にあるのは多様な事業主体の入り交じる都市開発事情

 こうして見ると泉パークタウンは三菱地所の事業だけが生み出したものでないことがわかるかと思います。仙台北部中核テクノポリス構想に代表されるように、宮城県、ひいては国家プロジェクトに対する関わりが強く、さらに泉パークタウン内を縦断し、仙台都心部と泉パークタウンを直接結ぶ幹線道路となった県道264号大衡仙台線も仙台都市圏全体の都市計画の中で整備が行われています。いわば、こうした泉区の空中分解ともとれる現状は、デベロッパー、国、県、市、区がそれぞれ異なる思惑で事業を進める中で結果として生まれたものであることも興味深いといえるでしょう。特に、仙台市としては泉区の中心と「したい」泉中央駅周辺の整備事業は、合併前の泉市が泉の中心市街地とすべく残した「置き土産」でもあるため、事態はさらに複雑です。

 まちづくりに勝ち負けはないはずですが、この現状は、泉区が仙台の「郊外」で、宮城県の広域行政の中で仙台北部の一エリアとして捉えられ、独立した都市ではないという事実と、さらに言えば泉中央が泉区の中心地となりきれず、「泉パークタウン」が泉区の顔となってしまっていることは、「泉を仙台とは独立した都市にしたい」と願った旧泉市の想いの敗北なのかもしれません。もしそれが、思惑は異なっても、仙台とは別の都市核を作ることを目指した「仙台北部中核テクノポリス」と「泉パークタウン」が招いたことなのだとすれば、それはとても皮肉なことのように感じます。

 

泉パークタウン、開発はいよいよ根白石へ

 さて、そんな泉パークタウンですが、実は開発事業そのものは現在も進行中です。2018年11月には新たに第6住区東工区(寺岡の西側)が着工し、2022年春の販売開始を目指しています。今回の開発事業は他社との共同参画による事業となっており、グループ外の他社との連携に柔軟な姿勢はいまだ失われていません。

 

第6住区の造成はすでにスタートしている(撮影: かぜみな・2018年)

 

 今回着工された第6住区は、泉区の中でも開発の恩恵から取り残されているとされる根白石地区にかかる街区となっており、今回の開発事業で、のどかな風景が広がる根白石地区にも開発の影響が波及していくか注目されます。残りの中央工区、西工区もその後5年の工期で造成が行われる予定となっており、日本最大である開発事業は、どこまで泉という「都市」を呑み込んでいくのか、いまだ終わりが見えません。

参考文献

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泉パークタウンHP:http://www.izumi-parktown.com/(2018年12月17日最終閲覧)
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日本経済新聞地方経済面東北B「21世紀プラザ、コスモス構想の中核に――宮城県知事が表明。」1987/02/03付
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日刊建設新聞「パークタウン第6住区 来春、148ha造成に着手 1965区画整備(三菱地所)」2017/07/08付:http://www.jcpress.co.jp/wp01/?p=18780
河北新報ONLINE「<泉パークタウン>開発半世紀「完成」へ 三菱地所、最終区域の造成を来月開始」2018/10/27付:https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201810/20181027_12028.html

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渦森 うずめ

都市という現実の中に漏れ出す夢や理想を商業空間に見出して遊んでいます。逆にコンテンツという夢や理想から現実を救い上げるのもすき。つまりは理想と現実を渡り歩く放浪者(?)。消えそうなファーストフードチェーン「サンテオレ」を勝手に応援中。