新居浜市は別子銅山を中心に住友の企業城下町として栄えてきました。そのため、住友は都市整備の一端を担ってきました。
また、別子銅山閉山以降、新居浜市がその遺構を利用して、産業遺産を中心にしたまちづくりを志向するようになりました。そこで今回は、別子銅山と人々の暮らしの結びつきとこれからの新居浜市のあり方を考えていきたいと思います。
まちをつくった住友
鉱山とまちは近代史において密接な関係にありました。しかし多くの鉱山で栄えたまちは、ほとんど往時の姿を見ることはできなくなっています。別子銅山も例外ではなく、旧別子地区や東平(とうなる)ではほぼ往時の面影は見ることができなくなっています。
一方で鉱山から工業都市になった新居浜では様々な遺構が残っています。
特に昭和初期の鷲尾勘解治(かげはる)が別子銅山の支配人だった時代の遺構が残っています。鷲尾は都市計画的な視点を持ち、新居浜港の拡張をはじめとした様々な施設を整備しました。現在も市街地を通る昭和通り・高級幹部向け社宅や厚生施設・6万人を収容できるグラウンドなどに遺構を見ることができます。その多くは「作務」と称した抗夫などの奉仕活動により整備されました。
戦後に整備されたものの跡としては「新居浜大丸」が代表的です。今はその土地に食品スーパーが立地し、往時の面影を見ることはできなくなっていますが、2001年と比較的最近まで4階建ての立派な建物で営業を行っていました。
元々は別子銅山の小売部門から独立した「別子百貨店」をルーツにもつ百貨店で、大丸が資本参加をし、大丸と住友グループが共同出資した「新居浜大丸」へと発展して営業を行っていました。
また、市内には住友別子病院が立地し、別子銅山閉山まで「ゆりかごから墓場まで」住友グループにお世話になるまちが完成していました。そうした新居浜の発展は戦後に航空路線も呼び込みます。新居浜の海を利用した空港があり、一時期は水上艇を利用した航空路線が大阪(堺からのちに伊丹)と新居浜の間に開設されていました。のちに別府への空路と統合されますが、別府へ向かう客は観光客、新居浜に向かう客はビジネス客とはっきりわかれていたといいます。
別子銅山閉山後の新居浜市
1973年の別子銅山閉山以降、住友グループの事業縮小などにより、市内の経済は停滞傾向となっていきました。また、1990年代から2000年代にかけての図書館寄贈や新居浜大丸撤退といった住友の「盟主の座からの撤退」はじわりじわりと進んでいきました。
これに対し、新居浜市では新しいまちのビジョンを作るために動いていきます。そのうちの1つが、別子銅山の遺構利用でした。1991年に「マイントピア別子」を第三セクターとして設立し、鉱山観光をスタートさせます。
鉱山観光の施設は全国にいくつかありますが、新居浜の場合はマイントピア別子を拠点に市民ガイドが誕生しました。当時の新居浜市の職員がこうした市民ガイドの育成に熱心で、一時は「カリスマ公務員」として注目されます。また、市民ガイドも別子にゆかりのある人が多く、経験を伝えたいと熱心な人が多かったようです。
最近では近代建築が注目されるようになり、端出場にある変電所の跡や「東洋のマチュピチュ」と命名された東平の遺構に関心が寄せられるようになりました。そこで、新居浜市は別子銅山をシンボルにした施設整備を行い、産業遺産として別子銅山関連施設を積極的にPRするようになっていきます。
新居浜と住友のこれから
これまで産業遺産の話をしてきましたが、新居浜は未だに住友資本の工場が立ち並ぶ工業都市でもあります。そうしたまちのあり方の中でどのようにまちに人々をつなぎとめていくか、まちに人々を呼び込むかは大きな課題です。
知名度アップの観点からすれば、別子銅山を中心に栄えてきた工業都市というのはわかりやすく、アピールしやすいと思えます。一方で、立地のメリットや将来性からとらえるとすれば、新居浜というまちに魅力を感じてもらうのには大変難しいといえます。
産業観光も遺構という「すでに役目を終えたもの」を利用しているわけで、そういった意味では将来発展性は限定的で、新居浜という10万人クラスのまちを支えるには難しいといえます。
都市である以上、雇用のために工業、すなわち住友を捨てきれません。また観光でも住友の残したものにぶら下がらざるを得ません。こうしたジレンマの中ではまちの新しいビジョンを生みにくいとも言えます。商業ではイオンモールが中心となり、中心市街地の商店街は駐車場になってしまったところも目立ち、都市の基本形もあやふやになっています。
こうした難しい状況では、産業遺産の維持はゆるやかに住友と共存関係を築いていくという意味でも必要なことかもしれません。そして、まち・企業のあった姿を伝え、シビックプライドを高めることで工業・観光が両立した新居浜という形で維持していけるように思います。
また、市民ガイドの芽が出てきているので、市民からの市民が中心となった民間ベースのまちづくり活動が今後行われていくことが期待されます。現在は市民とまちが手を携えたまちづくりが行われていますが、中々「市民でやる」ところまでいっていないようです。住民も別子銅山を知らない世代が増えていく中、今後は観光だけでなく市街地活性化やリノベーションといった場で「市民」の力が発揮されていくことが期待されます。
いずれにせよ、「別子銅山のあと」という新しいまちの形を生み出すにはまだまだ時間がかかりそうです。
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参考文献
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新居浜市(1999)「未来への鉱脈 別子銅山と近代化遺産」 新居浜市.
米澤和久(1993)「地域が自立する -3- 再起かける企業城下町 愛媛県新居浜市」,『エコノミスト』71-18,72-78頁
宇都宮千穂(2004)「新居浜における住友資本の事業展開と都市形成過程」,『歴史と経済』46-4,1-18頁
日経産業消費研究所(2004)「現場から 愛媛県新居浜市 産業遺産支える市民グループ」,『日経地域情報』431,7-9頁
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森賀盾雄(2010)「産業遺産活用から産業文化都市創造へ–新居浜市・知のクルージングの新たなステージ–」,『調査研究情報誌ECPR』26,16-23頁
新居浜市ホームページ:http://www.city.niihama.lg.jp/ (2017年11月9日確認)
マイントピア別子公式サイト:http://besshi.com (2017年11月9日確認)
(株)大丸『大丸二百五拾年史』(1967.10) | 渋沢社史データベース:https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=8150&query=&class=&d=all&page=30 (2017年11月9日確認)
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