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【まちのすがた】「新県道」から「国際通り」へ。国際通り誕生の裏側を見る―国際通りから見える”那覇”:第2回

 沖縄の県都・那覇で最もにぎわい、今日も多くの人が訪れる「国際通り」。前回はその前身である「新県道」の建設経緯と那覇市の都市構造について追ってきました。
 今回は、太平洋戦争後に1から作り直すことになった那覇のまちと国際通りの関わりを中心に紹介します。

 
国際通り周辺の施設の位置関係図

国際通り周辺の施設の位置関係図  (OpenStreetMap・那覇市史などを元に作成) © OpenStreetMap contributors

 

土地の解放から始まった那覇の戦後

 1944年の十・十空襲から始まった沖縄戦は翌年の4月にアメリカ軍が沖縄本島に上陸すると6月末まで各地で戦闘が行われ、悲劇的結末を迎えます。
 その後8月にポツダム宣言の受諾により終戦を迎えます。しかし、沖縄戦終了後2か月経ったこの時点でも国際通りに関わる自治体の那覇市・首里市・真和志村に居住していたものの、避難し生き残った住民は収容所での生活を余儀なくされていました。なぜならアメリカ軍が那覇周辺一帯を占領し、住民の帰還を許さなかったからです。
 住民はもちろん早期に元の土地へ帰還することを強く望んでおり、那覇・首里・真和志それぞれの住民代表が帰還に向けた交渉をアメリカ軍と行っています。
 アメリカ軍も那覇を中心に経済を復興させる方針ではあったようで、1945年の11月に壺屋町への一部住民帰還が始まります。この時の名目は産業復興であり、壺屋町で行われていた焼き物産業の復興により、陶器の生産を再開させようというものでした。

 
やちむん通り

壺屋の町内を通る「やちむん通り」です。「やちむん」とは焼き物のことです。現在も工芸品を売る店が通り沿いにあります (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 壺屋町は那覇郊外だったため、十・十空襲でも生き残った建築がいくつかあり、人が住むにも適していたようです。いつしか壺屋町へ入った陶工の親類縁者を名乗り、多くの市民が壺屋町へと入っていきます。翌年1月には1000人が暮らす区域になっていました。
 その後アメリカ軍は住民帰還を認める方針を拡大し、5月には牧志町が解放されます。
 このころ、首里や真和志でも住民帰還の動きが始まります。特に首里の人々の逞しさは目を見張るものがあり、収容所での文化活動やリーダー層の外交力には驚かされます。そのため、1945年12月から順次帰還が始まった後も順調に復興が進みました。アメリカ軍の援助を「部隊廃棄」の名目でこっそりと受けており、その投棄場所は「デパート山形屋」と呼ばれていたというユニークなエピソードもあるほどです。
 真和志の人々は那覇や首里に比べると帰還に時間がかかります。まず1945年12月から沖縄戦激戦地である摩文仁(現:糸満市米須)の地へ真和志村民が集められます。しかし、辺りには人骨が散乱しており、夜には骨から出るリンが燃えて周囲は明るかったそうです。
 そこで1946年2月以降に収骨が村民挙げて(このころ8000人ほどいたといわれています)行われます。500体ほどを収骨したところで「魂魄(こんぱく)之塔」を建て、4月には「ひめゆりの塔」を建立しました。地元から離れた地で厳しい生活を強いられる中でこうした活動を行ったことは特筆すべきことかと思います。

 
ひめゆりの塔

ひめゆりの塔 (撮影:めろぺんぎん)

 

 そして5月には摩文仁から豊見城の嘉敷に移り、7月にようやく真和志村内への帰還が始まりました。それから1949年にかけて段階的に解放が進みました。その後は壺屋・牧志を中心とした那覇市の郊外として爆発的に人口を増やしていきました。

 

那覇の端から始まった都市再興と闇市の成立

 こうして「郊外」だった国際通り周辺に人が集まりはじめ、いよいよ市場ができていきます。
 まずは現在の与儀十字路付近に農作物を売る非公認の市場ができ、1947年11月に開南交差点付近へ闇市が成立します。同じころに「新県道」と闇市を結ぶ平和通りにも商店が増えていきました。当時、米軍の統制経済下のこともあり、禁制品を販売している闇市は不法なものでしたが、監視の目をかいくぐって営まれていました。
 しかし、那覇の市民生活を支えるものであったことは間違いなく、那覇市は1948年から闇市に取締員を置くことで市営市場化し、1950年には公設市場の建物を作ります。これが現在の牧志公設市場です。
 同じころ、平和通りから南の神里原通りにも店舗が立ち並ぶようになり、1950年代中頃までに現在の牧志公設市場周辺の商業集積の形が出来上がりました。

 
那覇・市場中央通り

牧志公設市場に隣接する市場中央通りの現在の様子です (撮影:夕霧もや・2016年)

 
那覇・平和通り

1950年代から栄えた平和通りの現在の様子です (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 特に平和通りや神里原大通りが賑わい、神里原大通りには百貨店の「沖縄山形屋」(注1)や「リウボウ」(注2)ができます。しかし、牧志公設市場近くのガーブ川はよく氾濫を起こし、周辺は水浸しになることが多かったといいます。
 1956年の大洪水以降には治水事業が行われ、水上市場の撤去や川幅拡幅が進み、現在では暗渠となりました。
 闇市が出現したころ、まだ国際通りは「新県道」と呼ばれていました。これが国際通りとなるのは、1948年に「アニー・パイル国際劇場」が完成したことと1950年の「通り会」結成がきっかけです。
 まず、「アニー・パイル国際劇場」は米軍や市民へ娯楽を提供しようと計画されたものでした。しかし、当時はまだ沖縄県民の中にも簡易的な家(注3)すらないものも多く、建設には批判が集まったといいます。
 それでもアメリカ軍の後押しにより開業にこぎつけると、連日大入り満員の賑わいを見せたそうです。この「アニー・パイル国際劇場」は沖縄戦の従軍記者で伊江島で命を落としたアニー=パイル氏の名前をとり、「国際」には平和への願いが込められていたといいます。

 
てんぷす那覇

国際劇場は1972年に「国際ショッピングセンター」となり、その後「てんぷす那覇」となりました (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 国際劇場の周辺には多くの店ができはじめ、こちらもにぎわうようになっていきました。そして1950年にガーブ橋から蔡温(さいおん)橋の間の商店で「通り会」が結成されます。通り会では当時「牧志街道」とよばれることもあった「新県道」の名前を「国際通り」と呼ぶことにし、会の名前を「国際大通り会」としました。
 1956年には現在の国際通りの区間は4つの商店会に分かれ、県庁(当時は琉球政府)側から「国際本通り会」、「国際中央通り会」、「国際大通り会」、「サイオン橋通り会(国際蔡温橋通り会)」となりました。

 
国際通りの商店会の位置関係図

国際通りの商店会の位置関係図  (OpenStreetMap・那覇市史などを元に作成) © OpenStreetMap contributors

 

 1954年には「国際通り」の拡幅工事が行われ、商業の中心がだんだんと移転していきます。1955年ごろには大越百貨店(のちの沖縄三越)が開業、リウボウ・沖縄山形屋が国際通りに移転してきて3つの百貨店が通り沿いに建つことになります。
 こうして賑わいを見せ始めた「国際通り」ですが、当時は日用品を中心に取り扱う店が多かったようです。この傾向が変容していくのはもう少し後のことです。

(注1):沖縄山形屋は1922年に鹿児島の山形屋の支店として旧那覇市街に店舗を開設し、1930年には東町に沖縄初の百貨店として移転開業しました。
(注2):1948年に「琉球貿易株式会社」として設立し、1952年に神里原通りの丸金デパート内に店舗を構えました。
(注3):米軍支給の角材で骨格を組み、壁・屋根をテントで作った6.33坪の住宅で、「規格住宅」と呼ばれていました。

旧市街の復興と新生・那覇市誕生

 太平洋戦争前に市街地だった旧那覇市の中心部は土地解放で大きく遅れをとることとなります。東町が解放されるのはなんと1952年のことです。その間に牧志公設市場周辺や国際通りが名実ともに那覇の中心街となっていました。
 さらに1951年に作られた都市計画によって土地整理事業も行われ、区画が大きく形を変えてしまったことにより、戦前の面影はほぼなくなってしまっています。
 1952年ごろに東町で撮られた写真では空き地が多く残り、これから復興といった状況がうかがえます。建物が立ち並ぶのは1960年ごろのことで、1962年の写真でようやく市街地らしくなっているものの、往時のような賑わいは見られません。
 一方で1956年ごろの国際通りや平和通りの写真を見ると、商店や民家がひしめくように建ち、賑わっていた様子が分かります。
 このころ那覇市では人口密度の過密さが問題となっていました。米軍に接収されたままの土地が多く、少ない那覇市内の土地に多くの人が住んでいたのです。このため都市計画の策定が求められ、東京の戦災復興にもかかわった石川栄耀氏が呼ばれ、那覇市拡張と土地整理を盛り込んだ計画がまとめられます。これに基づき、那覇市と首里市・真和志村(のちに真和志市)、さらに那覇港を挟んで対岸の小禄村が合併へと動き出します(注4・5)。1954年に那覇市と首里市・小禄村が、1957年に那覇市と真和志市が合併し、ほぼ現在の市域をもつ那覇市が成立しました。

(注4):戦前にも那覇・首里・真和志・小禄の合併計画がありました。また、この時は途中まで豊見城も含まれていました。
(注5):このほかに「みなと村」という米軍の港湾作業者が住む村が現在の壷川周辺に1947年に作られ、1950年に那覇市に吸収されています。

国際通りの成立を追ってみて思うこと

 ここまで戦後の国際通りの成立をたどってきました。
 はじめは牧志公設市場の南から市場が始まり、ガーブ川を中心に市場が面的に広がった後に国際通りへと移転していくというのはとても面白い現象です。そこには歩きやすい目抜き通りの重要性や後に解放されていった東町との位置関係とのかかわりも推測することができます。
 一方で東町をはじめとした久茂地川より西側の地域は土地整理事業で大きく姿を変えてしまいました。このことはおそらく牧志や国際通りから商店が移転しなかった大きな理由となったのではないかと思います。
 そして、国際通りや牧志公設市場周辺は米軍による土地接収により「ここにしかまちが作れない」という状況下で生まれたまちであることがうかがえます。太平洋戦争前は那覇の外れであったにも関わらずまちが成立したという意味では、とても「泥臭い」歴史が背景にあったともいえるでしょう。
 国際通りを指して「奇跡の1マイル」ということもありますが、私は「奇跡」というよりも「戦前の那覇の賑わいを復活させたい」と思う人々の想いと努力があってこその国際通りであると感じてなりません。

 
むつみ橋交差点

現在も賑わうむつみ橋交差点の様子です。左側が市場エリアとなっています (撮影:鳴海行人・2016年)

 

 次回は国際通りの観光地化と郊外商業の伸長を見ていきたいと思います。

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参考文献

那覇市企画部市史編集室(1974)「那覇市史 通史篇 第2巻 (近代史)」 那覇市.
那覇市企画部市史編集室(1979)「那覇市史 資料編 第3巻 1(戦後の都市建設)」 那覇市.
那覇市企画部市史編集室(1980)「那覇百年のあゆみ : 激動の記録・琉球処分から交通方法変更まで」 那覇市企画部市史編集室.
那覇市歴史博物館(2007)「戦後をたどる 「アメリカ世」から「ヤマトの世」へ」 琉球新報.
金城宏(1996)「那覇市商業の形成過程 : 那覇市国際通りを中心に」,『商経論集』24-1,15-44頁
仁昌寺正一(2000)「那覇市の公設市場について」,『東北学院大学論集. 経済学』144,171-203頁
グダグダ(β)(2011)「 山形屋・マルキンデパート」,『グダグダ(β)』http://gdgdwktk.blog.shinobi.jp/%E5%86%99%E7%9C%9F/%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E5%B1%8B%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88 (2017年8月27日確認)
伊從勉(2013)「市村合併という〈都市計画〉 : 首里・那覇の近代自治と官製都市計画の遅延」,『人文學報』104,37-63頁
沖縄のデパート リウボウオンライン:http://ryubo.jp/ (2017年8月27日確認)
那覇市HP:http://www.city.naha.okinawa.jp/ (2017年8月27日確認)
風景結々 ~沖縄らしい風景づくりポータルサイト~: http://www.fukei-okinawa.jp (2017年8月27日確認)

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地域を俯瞰的に見つつ、現在に至る営みを紐解きながら「まち」を訪ね歩く「まち探訪」をしています。「特徴のないまちはない」をモットーに地誌・観光・空間デザインなど様々な視点を使いながら、各地の「まち」を読み解いていきます。