寒川町は、神奈川県の中央部を流れる相模川の左岸に位置し、茅ヶ崎市の北側に位置します。約4万8千人の人口を擁し(2017年8月1日現在)で、増加基調にあります。都心へ直結する鉄道はないのですが、茅ヶ崎、海老名、橋本を結ぶ相模線が町内を通っており、こういった乗換駅を通して東京のベッドタウンとしての役割を果たしています。
寒川町といえば、相模国一之宮寒川神社をイメージする人が多いと思います。しかし、それ以外の寒川については、なかなか知られていない面が多くあるように思います。前回は茅ヶ崎駅周辺、特に駅北側の商業施設を巡り、茅ヶ崎のイメージとは異なる茅ヶ崎の顔があることを確認しましたが、今回は寒川町にまで足を延ばして、知られざる寒川町の顔を紹介していきたいと思います。
「工業都市」寒川の側面
前回寄ったエイビイ茅ヶ崎店から旅を再開します。
エイビイの近くにある「保健所前」バス停から下河原経由の寒川駅南口行きのバスに乗り込みます。経由にある「下河原」という地名にもあるように、相模川の沿いを北上していく系統です。
バスには住宅地を縫うように狭い道を進みます。途中「肥地力(ひぢりき)」「登象(のぼりぞう)」と、変わった名前のバス停が続き、「産業道路(県道46号線)」との交差点を右折します。右側に産業・研究機関向け真空装置製造の「アルバック」の巨大な本社をみつつ北上し、環境事業センター入口の交差点を左折して産業道路から外れると、まもなく寒川町に入ります。工場が次第に増え、「寒川工業団地入口」「東京応化工業前」「新明和前」「旭ファイバー寮前」…とバス停の名前も企業名ばかりへと変化していきます。これらのバス停の先にある「八角広場前」バス停で降りて、少し工業団地を歩いてみます。
この一帯は「寒川工業団地」と呼ばれており、1960年代に建設省によって造成された工業団地です。敷島製パン、新明和工業(輸送機器)、旭ファイバーグラス(建材、工業材料)、日東化工(ゴム製造)といった企業が立地していて、こういった工業団地の立地もあって、朝は周辺自治体から寒川町に通勤するという流動もあるようです。
実はこの工業団地、戦前旧日本軍「相模海軍工廠寒川本廠」が置かれていた場所だったのだそうです。化学兵器や火工兵器の本格的な量産を目的として、海軍技術研究所の化学研究部から昇格した工廠であったため、地下水や土壌の汚染などが問題となっているようで、2002年には海軍工廠跡地内で、工事中に旧軍の化学剤が入ったビール瓶が発見されて作業従事者が被災する事故が起きています。
そして「八角広場前」という不思議なバス停名ですが、これは相模線西寒川支線の西寒川駅跡のことを指しています。西寒川支線は相模線の寒川駅から分岐する、もともとは相模川の砂利採取のための路線であったのですが、先述の海軍工廠が設置されると、戦争期末期は軍事輸送の路線としてもにぎわったようです。戦後は寒川工業団地への足として残ったのですが、最末期は朝夕のみの運行となり、1984年に廃線となりました。ちなみにこの路線は相模線の一部として扱われ、「西寒川支線」は通称であったそう。
さて、工場街を進みましょう。川べりの道を南下し、新明和工業の工場の角を左折し、東へ進みます。工業団地内を貫く水路に沿って歩いていくと、工業団地の中央部で、南北に走る圏央道の高架をくぐります。この区間の圏央道は2013年4月に開通した区間で、近隣には寒川南インターチェンジも設置されています。
圏央道を越え、日本化工塗料の工場を左に見ながら歩くと、先ほどバスで通った産業道路へと戻ってきます。この交差点はズバリ「工業団地入口」で、大型トラックが次々と曲がって工業団地へと入っていきます。そのトラックの車列に反するように、産業道路をさらに越えて東へと歩きます。
のどかな寒川から、まちの寒川をめぐり、鎮守の森へ
田端北交差点を過ぎると、景色が急にがらりと変わります。建物が無くなり、一面の農地が広がっている場所に出たのです。周囲の幹線道路沿いは宅地化が進んでいて、その「内側」には、こういったのどかな景色がまだまだ残っています。この近くでは観察できませんでしたが、寒川町は農業、特に畜産業が盛んで、近隣自治体とともに、ブランド「高座豚」の生産でを行っており、県内ではよく知られています。取材当日は富士山もきれいに見え、気持ちの良い散歩道です。そのまま東へ10分ほど歩いて、県道45号線に出ます。「大曲」バス停から再びバスに乗って、寒川の中心市街地を目指します。
バスに揺られ、「寒川駅南口」で下車します。「寒川駅南口」バス停は寒川駅から離れた道路沿いにあり、数台のバス駐車場の角にバス停が置かれています。バス停からだと駅は非常にわかりにくい場所にあり、地元の人でないと迷ってしまいそうです。寒川駅を越え、表玄関である北口に出ます。こちらは南口とは違い、立派な駅前ロータリーが整備されていて、南口のようにバス停の場所に迷う……なんてことはなさそうです。
よく見てみると、建物がどれも新しいことに気づきます。これは1992年より行われている「寒川駅北口地区土地区画整理事業」によって再開発が行われたからのようです。駅前には短いながらも立派なプロムナードも整備されており、街の玄関口を強く意識した街づくりが行われています。
そんな市街地を抜けて、商店が並ぶ道を西へ8分ほど歩いていくと、右側に見えてくるのが寒川町役場です。町役場が市街地の外縁部にあるといった立地です。町役場から西側にかけて、農協や病院、郵便局などが立ち並び、のんびりとした雰囲気ではありますがちょっとした官庁街のような集積が見られます。
そのまま西へ進むと、道路の中央に並木が続く道路に突き当たります。この道が寒川神社の参道となっており、果樹園を右に見ながら参道を北上し、一の鳥居を越えると、しだいにうっそうとした鎮守の森が見えてきました。ここが寒川神社です。
寒川神社は、相模国一之宮と称され、約1500年余の歴史を有する神社です。関八州の裏鬼門に位置し、古くより八方除の守護神として信仰されていて、初詣シーズンには首都圏を中心にCMが放映されており、神奈川県民はのみならず首都圏一円にその名が知られる神社です。
ちなみに、寒川神社の最寄り駅は相模線の寒川駅ではなく、一駅北側の「宮山」というのがおもしろいところです。
「まちのイメージ」と生活の舞台―「茅ヶ崎」「寒川」をみつめて
2回にわたって、茅ヶ崎市、寒川町を訪ね歩くことによって、知られざる「湘南」の一面を紹介してきました。寒川の「工業都市としての顔」や、のどかな田園風景など、神社だけでない新しい「寒川」の姿が見えてきたように思います。そしてそれは前回ご紹介した茅ヶ崎に存在する庶民的な営みにもつながるところがあるように感じます。
まちには「こういったまちだ」という説明や性格付けが必ずありますが、そういったものが、そのまちの全てを語れるということはないのかもしれません。そういった「イメージ」とは異なるまちの姿は必ずあって、それを発見することができるのが、旅行であったり、散歩であったりといった行為なのではないでしょうか。そしてその新しい姿を発見するのはとても楽しいことであるように私は感じます。こういった意外な側面や性格を知りたいというのが、私の旅行の原動力の一つになっていると再確認できたような気がします。
さて、次はどこへ行きましょうか。あなたの知らない、わたしの知らないまちの「顔」をさがして…
参考文献
宮脇俊三(1984)『時刻表2万キロ』,角川書店.
寒川町HP http://www.town.samukawa.kanagawa.jp/(2016年12月6日閲覧)
神奈川中央交通HP http://www.kanachu.co.jp/(2016年12月5日閲覧)
八方除 寒川神社HP http://samukawajinjya.jp/index.html(2016年12月6日閲覧)
渦森 うずめ
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